余談ですが、米国国歌「星条旗」の歌詞は戦場の風景を描いています。一晩戦闘が続いて、朝起きたら星条旗がまだ健在だったという話。感動的ですが、「君が代」とは対照的な、戦争の勇ましい歌です。四番までありますが、三番は最初から最後まで英国の揶揄と批判です。

《戦争による破壊と混乱を
自慢げに断言した奴等は何処へ
家も国もこれ以上我々を見捨てはしない
彼等の邪悪な足跡は
彼等自らの血であがなわれたのだ》

 三番はもう今では歌わないです。私たちも、学校などで国歌斉唱する時は、常に一番だけでした。

 合衆国憲法に国歌の規定はありません。習慣的に使われていたこの歌が法的に国歌として正式採用されたのは、かなりあとの1931年3月3日の国会決議可決に基づきます。国旗も州が加わるごとに変わって来ました。私がまだ幼稚園の時に、アラスカ州とハワイ州が増えて国旗が変わったことはよく覚えています。幼稚園でも、必ず国旗が教室に掲げられていました。

集団的自衛権は憲法以前の話


 私は大学で憲法を勉強しましたが、憲法を学ぶことはとりもなおさずアメリカの歩みを紐解いていくことに他ならない。憲法は国家の基盤ですから当然といえば当然ですが、黒人の問題にしても、結婚のあり方にしても国論を左右する問題は悉く憲法を直撃する。憲法というのはそれだけ重要なものなのです。

 話を日本国憲法に戻します。憲法9条のどこが致命的におかしいのか。私は憲法9条こそが憲法違反だと考えているので、理由を説明します。

 そもそも国家の自衛権というものは個別的、集団的という区別なく、国際法で認められています。話をわかりやすくするために、まず個人レベルの正当防衛を考えます。

 個別的と集団的を分けて考えたがる傾向がありますが、刑法上、両者は全く区別されておらず、一体のものです。刑法36条1項には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は罰しない」とあります。早い話、自分の子供が殺されそうな場面を想像してください。自分が助けなければ子供は殺されてしまう。犯人に立ち向かうのは当然です。その結果、仮に犯人の命を奪っても、過剰防衛でない限りは罰しない。それが正当防衛の趣旨です。この時、自分が守ったのは子供の権利(生命)なので、正当防衛権の中で個別的ではなく集団的な防衛権を行使したことになる。それだけの話です。

 次に、国家レベルの話ですが、個別的のみならず集団的自衛権も、国際法で当然に認められています。

 国連憲章51条には「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない…」とあります。つまり自衛権は、憲法以前の固有の権利です。憲法に規定があろうがなかろうが、自国の領土や国民を守る自衛権を持たない国はありません。そして先に示したとおり、個別的と集団的という区別に本来大した意味はなく、自衛を目的とした武力行使も、国の当然の権利です。

 日本政府も、集団的自衛権を保有している事実を否定したことは過去に一度もありません。憲法上、禁じられていると言ったのは集団的自衛権の「行使」に限っています。権利は持っているが、憲法上、行使は許されないと解釈してきたのです。

 しかし、行使が許されない権利というのはとてもおかしな話です。憲法以前の話としてあまねく認められている権利について、その行使を憲法が縛っている。それはとてもいびつであり、無理やりな理屈です。