米軍が事前警報を受けていたら


・艦隊:艦隊はコンデイション3だった。戦艦は高角砲の四分の一に兵員が配備され砲一門当たり十五発、〇・五〇口径機関銃二門で各三百発。訓練した兵員であれば一分で二十発発射可能である。土曜日は上陸日であるが宿泊施設があまりないので下士官兵の殆どは艦に戻っていた。士官クラスは結婚している者も多く艦によっては五〇%位が不在だった。

・陸軍:陸軍はオアフ島に大きな対空能力を有していた。防空担当の沿岸砲兵部隊が三インチ固定高角砲二十六門、三インチ移動高角砲六十門、三十七㎜一機関砲二十門、〇・五〇インチ口径機関銃百七門。その他。

・陸軍航空隊:陸軍航空隊はP-40、六十四機、P-36、二十機、P-26、百機が稼働可能だった。他に整備中が九十機。十一月二十八日までは警戒2であったがショート中将がサボタージュ対策を意味する警戒1にした。十二月六日に制約が外れた当番将校以外週末休暇が認められ、平時に従い弾薬は飛行機から外されて倉庫にしまわれた。

・艦隊への四十分前の警告:空襲四十分前に総司令部(GH)が全艦隊向けに設置されるが、設置に必要な時間は最大二十分である。高角砲、電力供給、高角砲用高圧空気、消火用水圧担当が戦闘配備につく。日曜朝は士官の六五%、乗員の九五%が乗艦しており十分対応できた。当時米国海軍は世界最先端の方位盤と、世界最高の高角砲5/38を備え、前年から訓練を重ね高い練度と士気を保っていた。七時五十分から八時五分にかけ約三十二機を撃墜した可能性がある。第一次攻撃隊の撃墜の推定は下限で四十一機、上限で五十二機である。珊瑚海海戦やミッドウェーでは五〇%以上、場合によっては七五%の飛行機が喪失したことから、真珠湾には艦載の高角砲よりも多くの砲を導入できるのでこの被害推定はむしろ低めである。さらに雷撃機二十〜三十四機が魚雷投下前に撃墜されると見られ、残るのは二十〜二十八機となる。英国の地中海戦闘の調査でも防空体制をとる艦船への命中率は六〇%下がるとされる。

・米陸軍飛行隊(AAC)への四十分前の警告:十一月二十八日までのコンディション2においては常に待機状態でパイロットは飛行機についていた。日本海軍は当初この警戒期間中の攻撃を計画していた。十二月七日に稼働可能な飛行機は九十四機で通常より少ない。機銃整備中のものを加えると使用可能な機体は百六機であり、十一月二十八日機の防空戦闘機による撃墜数は推定の下限で六十一機、上限で八十三機である。

・陸軍の全面防空警戒:陸軍は真珠湾攻撃の直前に七日間の演習を実施した。全ての高角砲が動員され実弾装塡された。然るに十二月六日に武装を取り外す指示がでた。警戒期間中に日本軍の攻撃があったとすれば、移動三インチ砲七十六門が防衛に加わり十二機から四十八機が更に撃墜され陸軍の三インチ高角砲と併せて十八機から七十八機撃墜できたとみられる。

 全ての防空体制を加えると以下の推定下限および上限となる。
 もっとも有りうるのは攻撃隊の五〇%台とみられる。これは一九四二年から四三年にかけての海戦における喪失機数に沿っている。珊瑚海海戦における日本側の喪失数は三〇%、飛龍の米空母への攻撃による喪失は六三%で、ミッドウェーにおける米国の雷撃機は八六%である。真珠湾における日本機の喪失も同様に恐ろしい数字になった可能性がある。

 以下の表は搭載機の喪失により稼働不能となる空母である。

 日本空母は搭載機数の三分の一から三分の二を喪失することになり、実質的に残る二隻が稼働して残りは一九四二年後半ごろまで回復しなかったかもしれない。

・結論:日本の攻撃が一、二日早く警戒2であったら空母の三分の一から三分の二が稼働できなくなるだけの機数を喪失したであろう。熟練した搭乗員の半分以上を失った可能性が強く太平洋戦争の帰趨に大きく影響したとみられる。

 現代の海軍では戦闘作戦の後には、“Hot Wash-Up(直後の洗い出し)”と呼ばれるプロセスで参加者が実際の経緯、決定、エラーを徹底的に洗い出して教訓を記録に残す。批判を封じることは禁じられており、そのデータはしばしばオペレーション・リサーチのアナリストによりさらに詳しく分析される。仮に真珠湾攻撃の直後にHot Wash-Upが実施されていたら日本側の計画、実行、リスクについての評価は相当異なるものになっていた可能性がある。

アラン・D・ジム ジョンズホプキンズ大学応用物理学研究所の航空システム及び先端コンセプト部門のヘッド。元米国海軍の指揮官で物理学、OR及び行政学の学位を有し政策分析及び戦略策定のプロ。著作、論文も多く第二次大戦の海上戦闘のコンピューター分析で受賞。また一九九九年には米国海軍協会からアーレイ・バーク賞を受賞している。

うらべ・ただのり 一九四五年、長崎県生まれ。東京外国語大学スペイン科卒業。スタンフォード・ビジネススクール留学。大和証券サンパウロ駐在員事務所長。アメリカ大和証券日本企業部長。スペイン大和証券社長。国際協力事業団パラグアイ国経済開発調査副総括。長年国際金融業務に従事。著書に『世界の資本市場スイス』(共著、教育社)、訳書に『For that One Day』(原題『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社)。