危機で映える政治家


 そうした状況で、「慎重すぎる」朴大統領が安倍首相との会談であえて「年内解決」という表現を口にしたことは予想外のできことだった。歴史問題の呪縛を断ち切ったのである。では、なにがあって朴大統領は呪縛を切ろうと決心したのか。類推できることは2つの要因である。1つは、韓米日同盟関係をこれ以上漂流させるのは危ないという戦略的判断だろう。この判断にはオバマ政権の圧力があったことを否定できない。この戦略的計算は国内政治ともつながる。5年任期をもってスタートした朴大統領は、意外に支持率が低空飛行してきた。朴大統領には「国がなくなっても支持してくれるコンクリート支持層」が35%あるという話だった。であれば、現実の朴大統領への40%前後の支持率は極めて低いものである。こうした中で2016年に入ると、任期は実質的に2年しか残っていない。性格が弱いひとであれば、諦めてレームダックに安住してもおかしくない。しかし、両親を銃弾で失い、独身で政治の修羅場を勝ち抜いてきた朴大統領には恐怖心がないし、決断をしたら前に突進する。朴槿恵という政治家は危機の中で映える人物である。

 2015年8月、天安門広場の壇上に上がった時点で朴大統領は任期の返還点を通過した。その時点から外交日程がきっしりと組まれていた。しかし、朴大統領を頂点とする韓国の保守界には危機意識が走っていた。1つは、韓国の中国接近が米国との同盟関係を揺らぐほどまでに行き過ぎたのではないかという心配。もう1つは、韓国市民社会で左派の価値体系が教育現場を支配しつつあるということだ。そういう趨勢は止めなければ2016年の総選挙で野党が優位に立つ可能性があり、その可能性は2017年の大統領選挙で野党人士の当選につながる恐れがある。そうなると、引退後の朴謹恵氏が大変な目にあう可能性も排除できない。

 こうした危機感の中で行われた軌道修正が、外交の面では中国接近論の払拭と米日韓同盟体制の立て直しであり、内政では歴史教科書編纂の「国定化」への臨時的回帰、そして潘基文国連事務総長の大統領候補としての迎入への努力であった。そういう流れで、朴大統領は慰安婦問題の「決着」を腹で決めていたはずである。

「後暴風」


 こうした背景で「電撃的」運ばれた合意と共同声明に奇襲された韓国の市民社会、特に左派系の市民団体や学者たちが反発することは当然だ。それを韓国では「後暴風」とよぶ。砲を発射すると弾が飛びだした反対方向に反作用が働き、強く吹く風が後暴風だ。その後暴風の模様を1つ鑑賞しよう。

 1月5日、韓国国会の議員会館では「緊急診断:2015年韓日外務長官会談の問題点」というタイトルの「緊急討論会」が行われた。主催は、挺対協、「民主社会のための弁護士の会」など4つの市民団体であった。その討論会に参加した運動家、学者、弁護士などは12・28合意を「歴史的正義を背けた野合」と規定し、「最終的且つ不可逆的」解決という宣言は韓国の憲法に違反する政治行為であると弾劾した。こうした議論がこれから野火のように広がることに間違いない。

 そうなると日本からは韓国が「ゴール・ポスト」をまた動かすという批判がでるだろう。しかし、韓国政府、特に外務当局がわざとゴール・ポストを動かしたことではない。問題の要諦は、2分された国論をまとめる統治能力が発揮されてなかったことだ。その統治能力を朴大統領が見せてくれるのかによって韓国の国際社会での位相がきまる場面に差し掛かっている。

ROH Daniel 政治経済学者、アジア歴史研究者、作家。韓国ソウル市生まれ。米国マサチューセッツ工科大学で比較政治経済論を専攻して博士号(Ph.D)取得。香港科学技術大学助教授、中国人民銀行研究生部客員教授、上海同済大学客員教授、一橋大学客員研究員、国際日本文化研究センター外国人研究員、京都産業大学客員研究員などを経て、北東アジアの政治経済リスクを評価する会社Peninsula Monitor Group, LLCを2015年7月に東京で設立。日本での著作として『竹島密約』(2008/草思社、第21回「アジア・太平洋賞」大賞受賞)がある。『「地政心理」で語る半島と列島』が藤原書店から出版予定。