ゲーム感覚で避難民を攻撃


 ──どうしました?

 金谷 親父は「家の前の防空壕はよして、とにかく遠くへ逃げよう」と。幅二十㍍くらいある大通りを皆で匍匐(ほふく)前進です。もうボンボン来るし、上陸して機関銃もバンバン来る。と、気が付いたら両隣の人がいない。後ろで倒れて動かないんですよ。私と親父は何とか逃げて豊真山道へ出た。他の人たちと隊を組んで樺太庁のある豊原まで歩いた。百㌔近く。途中、機銃掃射に追いかけられて。追っかけてくるんです。樺太にも螺(ら)湾(わん)蕗(ぶき)のような二㍍以上ある蕗が自生してて、その下に身を潜める。戦闘機を見ると二十㍍ほどの低空飛行だから操縦士が見えるんですよ。ニヤついてるように見えました。人殺しゲームを楽しんでたんですよ。

 ──腹立たしいですね。

 金谷 何とか飛び去って蕗の下か皆出てくるでしょう。でも逃げ込む前より少ない。何人かやられてるんですね。一緒に逃げていた若い夫婦の亭主が腸をぶち抜かれて、奥さんが、身重なんですけど、狂ったように「どなたか出刃包丁かナイフを持っていませんか」と。苦しんでかわいそうだから、ひと思いにということなんですど、「ありますよ」なんて誰も貸せませんよ。気の毒でしたね。めったに当たるものじゃないけど、当たる人がいたんですよね。


 ──極限状態でしたね。

 金谷 生きるか死ぬか、みんな。途中の畑で大根とか人参とか、黙っていただいた。翌朝、豊原に着いたら役所の人が避難先を振り分けている。私たちは豊原高等女学校。校舎だと思ったら校庭の蛸壺(たこつぼ)防空壕。一人しか入れないのが二百くらいあった。がっかりしながらも疲れてたから、死んだように眠った。
極限状態で避難した豊原高女。敷地内に掘られた無数の蛸壺防空壕で休息をとったが…(同)
極限状態で避難した豊原高女。敷地内に掘られた無数の蛸壺防空壕で休息をとったが…(同)

 ──その、蛸壺の中で。

 金谷 中で。翌日午前十時ころかな、戦闘機が二機で来て機銃掃射。私の蛸壺へ土砂がゴロゴロッと入ってくるんですよ。やっとこさ這い出ると、豊原駅の方が真っ赤なんですよ。二㌔足らずだから親父たちが止めるのを振り切って見に行った。駅前は爆撃され、焼夷弾もあって火の海でした。記録では邦人の死者百人とか二百人とかですが、あれはもっと多かった。北の方から避難してきてた人が大勢集まってましたから。そういう人たちは名前なんかわからないですよ。避難民は上から見ても非戦闘員とわかるのに、標的にされたんです。八月二十二日ですよ。
多数の避難民が集まった豊原駅や周辺はソ連軍の攻撃で火の海となり、多数の犠牲者を出した(同)
多数の避難民が集まった豊原駅や周辺はソ連軍の攻撃で火の海となり、多数の犠牲者を出した(同)

樺太でも地上戦、そして最後の空襲

 ──非道ですね。

 金谷 内地で地上戦が行われたのは沖縄と樺太、そして最後の空襲を受けたのは樺太の豊原なんですよ。

 ──日本人でも知らない人が多いですよね。

 金谷 終戦の玉音放送から一週間も経ってんのに…ゲームのように避難民を掃射する。いや、許すべきじゃないですよ。でも、官庁の担当者も知らないし、わかっていない。

 ──頭がよくてもね、判っていない。「樺太っていうのは日露戦争で南半分をロシアから割譲されたんでしょう」って平気で言うんです。

 金谷 ロシアにしても中国、韓国にしても、領土については厳しく教育する。他国から奪ったものでさえ固有の領土だと教える。少なくとも日本は歴史の事実を教えるべきなのにしない。敗戦ボケですね。これは。
人々の笑いがあふれ活気だった真岡停車場。駅前には円タクや乗合馬車が停まっている(同)
人々の笑いがあふれ活気だった真岡停車場。駅前には円タクや乗合馬車が停まっている(同)

 ──敗戦ボケの原因に、GHQやソ連・中共の思想工作があるようですが、終戦後に樺太に抑留されて洗脳を受けたのですか。

 金谷 終戦から二年間、樺太に抑留されました。ソ連は占拠した樺太の復興に日本人の労働力が必要だったこと、そして洗脳するためだったと思いますね。というのはね、ソ連軍政下の真岡で学校が再開された、中学、商業、女学校、工業なんかを集めて。教師はかつての中学や女学校なんかの先生の他に、見たこともないような人がいた。そして、何をしたといえば社会主義教育です。

 ──ソ連も素早いですね。

 金谷 そこに中学で習っていた歴史の先生もいて、終戦前は皇国史観だったのに、第一回の授業から何と唯物史観で始まったんですよ。戦時中はおくびにも出さなかったけど、密かに勉強していたんでしょうね。ショックっていうか、世界が変わってしまったような感覚でした。

 ──社会主義はすばらしいと。

 金谷 とにかく社会主義のいいところしか言いませんから。みんな平等で、自由でって。僕も魅力的に思ったことがありましたよ。ちょうど、どこからともなく左翼の雑誌や本が出てくるんです。僕はレーニンの著作も貪るように読みんで、まだ子供でわからないなりに、言ってることは大まかにつかめました。そういうの、いっぱいいましたよ、我々の仲間に。それがきっかけで、そちらの世界に入ったのもいたそうです。