占拠直後から思想工作徹底


 ──洗脳成功ですね。

 金谷 とにかく帝国主義と資本主義と社会主義の違いのようなものを切々と説明したり、日本の天皇制は「悪だ」と言って「お前たち人民は、搾取されているんだ」とね。

 ──今の日本にもいますね(笑)。

 金谷 でもね、だんだん露助の狙いが透けて見えて「こんなとこで、冗談じゃねえ」と思うようになった。歴史の、つまり社会主義の時間にテストがあったけど、私は白紙で出した。そしたら担任と学校担当のソ連軍少佐に呼ばれました。少佐は「お前は非常に不謹慎である。こんな調子では日本行きが再開しても、お前は帰すわけにはいかん」とカンカン。びっくりして「これから反省して勉強します」と答えて許してもらった。

 ──緒にいた日本人の担任はどうだんたんですか。

金谷 「金谷君、そんなことじゃだめだよ。今の時世をわかっとるか」って。仕方なしに言ってましたね。

 ──それで勉強したんですか。

 金谷 日本に帰れなくなったら大変と思い、次のテストまでに社会主義の教科書を一生懸命読んで百点取ったら、少佐はご機嫌でした。でも、これがきっかけで「こんな学校行ってられるか」という思いが強くなり、ほとんど行かくなかった。そのうちに日本への船が出るようになった。今考えても、もう二度とああいう体験はしたくないですね。

 ──ソ連の軍人は学校に何人くらいいたのですか。

 金谷 ソ連人は軍人ばかりで結構いました。授業をするのではなく学校を管理するために。しかるべき部屋にたくさん。北海道に移る際、皆そこから在校証明をもらったって言うんですよ。僕はほとんど行かなくなってからもらわなかったけど、まだ旧制だった滝川中学に行ったら編入してくれましたよ。

 ──ソ連管理下の学校ではスターリンの肖像画なんかも…。

 金谷 描かせられました。

 ──描く?

 金谷 スターリンの肖像をね、よく。「描け」って言うんですよ。「スターリンの写真をよく見て、このように描きなさい」って。みんな、しょうがないから描いてましたよ。

 ──各教室にあったんですか。

 金谷 ありましたよ。各教室に掲げられていました。まあ、僕らね、年の割に大人でしたね。「こういう場はこうしなきゃならんのだ」と割り切って応じていました。
ソ連に抑留されスターリンの肖像の前で洗脳教育を受ける日本人男性」。まだ若い。「同志スターリン指導の下に我が祖国は新なる発展に邁進せん」の標語
ソ連に抑留されスターリンの肖像の前で洗脳教育を受ける日本人男性」。まだ若い。「同志スターリン指導の下に我が祖国は新なる発展に邁進せん」の標語

 ──そういう思想教育を真に受けて「共産主義はすばらしい」となった子は身近にいましたか。

 金谷 何人かいました。ただ、そういう子とは会話はしませんでした。やっぱり家族が皆殺されちゃったような子は、頼るところもないまま、そういうことに傾倒してしまったんじゃないでしょうか。

 ──日本兵は捕虜収容所に送られましたけど、お父さんはじめ非戦闘員の男性は、抑留されてやはり思想工作、洗脳を受けたんでしょうね。

 金谷 いましたよ。戦後しばらくして「日本共産党の誰々は終戦時は樺太の中学生だった」とも聞いたことがある。思想教育がきっかけで、のめり込んだんじゃないですか。だけど大人については、もっとシビアでした。私の母方の祖父は銃殺されとるんです。豊原の機関区長をして、皇太子だった昭和天皇が樺太に行幸された際に車掌を仰せつかった。任務を恙なく終えると恩賜の拳銃をもらったんですよ。大事に桐の箱に入ったのを見たことがあります。

戦時中からスパイがソ連に情報


 ──それはそれは…。

 金谷 ところが戦時中からソ連に通じたスパイがいて「日本の戦争協力一覧」を作って渡していたんでしょうね。祖父も入ってたし、真岡町の重鎮の名前もずらっと入ってる。ソ連軍が侵攻してきたその日に全員呼び出され、海岸に並べて銃殺されたんですよ。近所の方に聞いたら、祖父は中風か何かでふらふらで、足も弱っていたから、よろよろしながら連れて行かれたそうです。

 ──お父さんは大丈夫でしたか。

 金谷 父も真岡に戻って少しした夜にGPU(ゲーペーウー=ソ連の秘密警察)連行された。町の経済統制を担当したでしょ。幸い三、四日して帰ってきたけど、黒かった髪が真っ白でした。何も語りませんでしたが、拳銃をちらつかせて厳しい尋問があったようです。戦後五十年の時、真岡で鎮魂の碑を除幕したんです。親父は亡くなっていたけど、家族代表のつもりで祖父がどこへ埋められたか探したんです。近所の人の話を手掛かりに。でも地形も変わってわからなかった。

 ──そうですよね。

 金谷 いやあ…真岡郵便局の電話交換手の九人の乙女が、毒をあおったでしょう。あれと同じころに、祖父が銃殺されとるんですよ。もう五月雨のように町の要人は連れて行かれて、随所でやられてましたね。中には殺されないまでも、シベリアに連行されて強制労働させられた人もいるらしいです。

 ──樺太で強制労働は?

 金谷 ありました。「対象者はこういうもんだ」って通達が来て、「何月何日どこどこへ集まれ」と。行きますとね、漁港に揚がってくるニシンをさばくとか。塩蔵にするとか、そういう作業に従事されました。ほんのわずか日当が出たと思います。労働力の確保という目的のほかに、血気盛んな若い男子に余計なことを考えさせない、つまり反ソ的な行為をする暇を与えないという意味もあったと思うんです。
ニシン漁などでにぎわっていたころの真岡港(同)
ニシン漁などでにぎわっていたころの真岡港(同)

 ──ソ連兵は怖かったですか。

 金谷 矛盾してるようですけど、ソ連の兵隊っちゅうのは、立場が変わるって一個人になると気のいい男が多いですね。僕らとずいぶん仲よくなりました。それでも、必ず党員っているでしょ、階級とは別に。目つきでわかる。密告の世界ですからから、あちこちに置いてある。恐ろしい世界です。