7人道連れに自決した教練の教官


 ──ソ連の無法な侵攻の中で、避難のための通信網を最後まで守り、青酸カリを飲んで…

 金谷 ひどかったですな。かわいそうに。豊原から戻った時に、そういう話が広まってました。信じられなかった、そういう光景はね。どんな思いで毒を口にしたのか…。

 ──むごいですね。

 金谷 むごいといえばね、痛烈な記憶は、中学に軍事教練の教官の将校がいて、五十代かな。息子が同級生で。よく教練の時に「シベリア出兵では敵の赤軍ゲリラを何人も斬った」と話していたけど、優しい人でとてもそんな風に見えないから「またほら吹いてる」って、僕ら本気にしなかった。ところが、八月二十日ね、真岡にソ連の艦砲射撃がドンと来た日。教官の家族は隣近所と一緒にこの日疎開する予定で、早朝から隣の奥さんが小さい娘を連れて相談に来てた。爆弾の音を聞いた教官はキッとなって、「奥さん、出ちゃいかん」と仏間か何かの部屋に閉じ込めちゃった。そして軍刀でバサッとやったんです、首を。それから自分の子供四人、小さい順に。奥さんもやって、最後に自分は腹掻(か)っ捌(さば)いてから頸動脈を斬ったって。

 ──古式に則ったんですね。

 金谷 そう、古式どおり。家に踏み込んだ露助のソ連兵もびっくりしたらしい。「これはサムライ、ハラキリだ」とね。八つの遺体を手厚く葬ったといいます。それを聞いて教官のシベリア出兵の話は本当だったんだと思いました。辱めを受ける前に自ら処したんですね。

 ──いにしえの軍人ですね。

 金谷 それから、八十歳を過ぎた今でも夢に見ることがあります。先ほども話したように、真岡に最初にドンと来た時、私が「防空壕入ろう」と言ったら、親父が「やめとけ」と言ったでしょ。とにかく防空壕じゃ危険だと。案の定、上陸したソ連兵は非戦闘員かどうかも確認せず、片っ端から防空壕に手榴弾(しゆりゆうだん)を投げ込んだんです。豊原から真岡に戻って、焼け跡整理が始まった。自宅前の防空壕を崩していったら中に死体が四つ。樺太といえども八月で日にちも経って腐乱してる。ものすごい異臭。顔は崩れてるけど「ああ、◯◯さんだ」ってわかりましよ。そんな防空壕をいくつも掘り起こしましたよ。

 それを、家の前にいくつもありましたから。それ、みんなでやりました。

今も夢に見る腐乱死体の片付け

 
 ──遺体を運び出すのは?

  金谷 私たちで運び出した。持つと崩れるんだけど、もう、マスクなんかないから口と鼻に手拭いを巻いて…。床下をコンクリートの地下壕にしている家があった。建屋は燃えちゃって、地下壕の入り口を引っ張り上げると異臭がバーッと来た。階段を下りると何人か死体があった。全部蒸し焼きですよ、上から。壁に引っ掻いた跡があり、死体は爪がない、取れてるの。もがいたんでしょうな。しかし、始末しなきゃいかんから持ち上げると崩れる。でも素手でやった。ソ連軍の命令だから。服は臭いでだめになった。十四歳の子供もやらされたんです。
金谷さんたちより10年も遅れて樺太から避難した人たち。両手に子供を連れ、荷物がほとんどない人が多い=昭和32年8月1日、京都・舞鶴港
金谷さんたちより10年も遅れて樺太から避難した人たち。両手に子供を連れ、荷物がほとんどない人が多い=昭和32年8月1日、京都・舞鶴港

 ──大変なことでしたね。

 金谷 かと思うと地上でね、消防団の制服着て片付け作業をしてるおじさんがいた。これがナチの軍服に似てるってんですって。通りかかったソ連兵が、そのおじさんつかまえて、「シュラ(歩け)」って。おじさん何のことかわからず歩き出したら、後ろから「バン」と射殺。見ていた僕らに「片付けろ」ですよ。

 ──へええ……。

 金谷 まあ、条理、常識の世界じゃないですね。

 ──ソ連がいかに非道なことをしたか日本人も知らされていない…。

 金谷 そうです。樺太(南樺太)は帰属未定だから、国際機関で正当に協議して日本固有の領土として返還へ導こうという返還期成同盟も尻切れになり、樺太のことになるとソ連の非道を隠して「日露友好」ばかり言う。とも、国際法無視の非道行為はしっかり非難しなくちゃいかん。やっぱり、外務省ね、腰抜けなんです。真岡郵便局の九人の乙女を題材にした映画『氷雪の門』の上映中止の件も、ソ連の圧力に加えて、「ソ連を刺激したらいけない」っていう官民の過剰な遠慮があった。

 ──そう、言論弾圧でしたね。

 金谷 まあ、とにかく政府は樺太について無策すぎる。