「狡猾で利己的で高慢で」


 もう一つ。彼は「daybreak(夜明け)に帰った」とある。不思議なことに袖井林二郎『マッカーサーの二千日』にも「午前七時二十三分、バターン号は滑走を始めた」と。

 それは間違いだ。こっちはいつも通りの時間に登校した。同級生に麻布の水橋酒店の若旦那もいた。彼はマッカーサーの側近たちが出入りした外人専用の「麻布ホテル」に配達していた。ホテル支配人は解放同盟の松本治一郎だ。彼が用意した女をケーディスとかが部屋に連れ込んでいた。

 その若旦那も朝礼後にアメリカ大使館まで歩かされ、屋上に立たされたことを覚えている。それからマッカーサーは第一京浜を下って出発式典をやって「羽田発七時何分」とかはあり得ない。だいたい午前五時、六時台に二十万人もが沿道で見送るわけもなかろう。

 いずれにせよ、マッカーサーは強権を振って児童を動員しておいて、かくも尊大な偽りを書く。子供の気持ちをここまで踏み躙った外国人を他に知らない。

 その腹立ちもあってその後、マッカーサーの話は嫌いなもの見たさでついつい気になって結構、目を通してきた。

 面白いもので例えば英戦史家のクリストファー・ソーンは彼を本当に嫌っているし、チャーチルと彼との連絡をしていたジェラルド・ウイルキンソン中佐も「マッカーサーは狡猾で利己的で高慢で、道義心に欠けて」とこっちの睨んだ通りに語る。

 米国人も同じ。アリゾナ大教授マイケル・シャラーも彼が閉所恐怖症で、臆病者で、戦略も展望も持たない、実にくだらない男だと彼の著書『マッカーサーの時代』で仄めかせている。

 日米開戦の日、マニラで見せた狼狽ぶりにもそれは窺えるし、朝鮮動乱の始まったときにもこの東京で頓珍漢ぶりを発揮している。

 そのくせ彼は実に無慈悲で、白人優越主義を振りまき、日本人を本気で滅ぼそうとしてきた。

 あの醜悪な憲法がその一端を示すが、それなのに日本人の評価はシャラーらとまったく違う。

 彼がクビになったときの朝日新聞は社説で「われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった」(五一年四月十二日)と書く。論説主幹の笠信太郎が書いたのだろうが、この当時から朝日新聞は何にも見えていなかった。

 朝日だけでなく、国会も「マッカーサー元帥に感謝する」決議をし、終身国賓待遇まで付与している。ちなみにマッカーサーは昭和三十六年七月、フィリピンにいくために日本の米軍基地に立ち寄ったが、基地の外には出なかった。よほど日本人が嫌いだったのか、自分の薄汚さに比べ、日本人の天真爛漫さが耐えられなかったのか。

 民間有志もマッカーサー神社を建てようと言い出し、彼への感謝を伝える国民の手紙五十万通が米国に送られ、それは今もバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に陳列されている。

 しかし彼が帰国して二週間後に始まった軍事・外交委員会の聴聞会で彼が「日本人は十二歳」と発言したことが分かり、彼の別の一面に気付いたのか、マッカーサー神社建立話は急速にしぼんでいった。

 それでもマッカーサーに対する思いはヘンなところに残っていて、例えば九〇年代末に新潟の中小企業主がマッカーサーのブロンズ像を寄贈し、今はゆかりの厚木飛行場に置かれている。