情報発信がメディアやジャーナリストなどの「特権階級」の独占物であった昔は、その限られた情報が偏向していると社会に対して多大な悪影響を及ぼしたのは朝日新聞慰安婦ねつ造報道が好事例であります。

 今、情報発信は世界中、限られたジャーナリストという「点」の発信からネットを通じて多くの不特定多数者による「面」の発信という、劇的変化が起こりつつあります。

 この劇的な変化をマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。

 BLOGOSにて既存ジャーナリストの代表格といってもよろしいでしょう、田原総一朗氏が「ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮」と題したエントリーをしています。

田原総一朗 2015年02月09日 13:06

ISILによる日本人人質事件で考えた、ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮

http://blogos.com/article/105237/


 失礼してエントリーより抜粋。

 「正解」の対応は、正直、僕にもわからない。ただ、ひとつ、何度でも言いたいことがある。人質となった後藤健二さんに対して、「危険な国に勝手に行ったのだから、自己責任だ」という意見がある。確かに自分の意思で行くのだから、自分の責任だろう。だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。

今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。僕も、そうした場数はたくさん踏んできた。

 そしてジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る。みんなが、現実について考えるためのきっかけや材料を提示するのだ。僕たちは、こうやって民主主義の根幹を支えていると思っているのである。


後藤健二さんを殺害したとする動画がインターネット上に投稿された
ニュースを報じる大阪・ミナミの街頭ビジョン=2015年2月1日、
大阪市中央区(沢野貴信撮影)
 「ジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る」とは、いかにも古い考え方であります、ジャーナリストだけが「情報発信」を独占していた古き良き時代の「残滓(ざんし)」ともいえましょう。

 国内では3.11のときも御嶽山噴火のときも、ジャーナリストが現地入りする前に、すでに大量の情報がネットを通じて発信されていました。

 それらの情報の中には、田原氏が主張する「だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。」との貴重な情報、まさに、現地在住者だからこその視点のたくさんの貴重な情報が一般住民から発信されていました。

 御嶽山噴火ではほぼ一般市民の情報発信だけでメディア報道は構成され最後まで現地にジャーナリストは不在でしたが私たちはなに不自由なく情報に触れることができました。

 今回のISIL関連の情報にしても世界で起こっている事件に関しても、別に日本人ジャーナリストが現地にいなくても私たちはネットを通じてしっかりと情報収集が可能です。

 ジャーナリストが一次情報発信を独占していた時代は終焉を迎えつつあります。これはネットの発達により世界中で情報発信者が「面」的に爆発的に膨らみつつある不可逆的な流れであります。この流れにあがなうことは不可能です。

 田原氏のいう、危険な場所でもジャーナリストが情報発信をする「使命」ですが、そのような使命がかつてあったことは敬意をこめて認めるものの、現時点そして将来その「ジャーナリストの使命」なるものは、変質を余儀なくされることでしょう。

 現地からの情報発信者がジャーナリストである必然性が失われつつあるからです。その意味で、「ジャーナリストの使命」という考え方そのものが、前時代の残滓(ざんし)なのだと感じています。
(ブログ「木走日記」より2015年2月10日分を掲載)