岸も佐藤も…核武装論者だった首相たち

 私はジャーナリストを名乗って何でも書いてきたが、核戦略という分野は専門性が高いので、うかつに手を出せないと思ってきた。膨大なデータや知識にもとづき、ときには高度な数学を含む抽象的な思考が要求され、特に日本では読者の抵抗がきわめて強い。

 しかし、そんな私にある市民講座から「核戦略について話してほしい」との依頼がきたのは数年前だった。たしかに核戦略について雑誌で短評は何度かしたことがあったが、それまでこの市民講座で私に与えられるテーマは「グローバル経済と日本」とか「急激に変化する雇用情勢」などであって、軍事について話したことなどなかった。

 いろいろ迷ったが、お調子者の血が騒いであれこれ準備し、全部で二回、合計で四時間の入門講座を考えた。インターネット上に見られるように「オタク」的なミサイルの詳細な評価をやっても仕方がないので、まず国際政治への見方が違うのは世界観が違うからだという話から始めて、核戦略も世界観やその国の置かれた状況で大きく異なると話を進め、いくつかの基本的概念を説明しただけで制限時間いっぱいだった。

 中年以上が多く女性も半分を占める受講者たちは、熱心に耳を傾けてくれたと思う。しかし、最後に「東谷さんは、日本では核について一般のレベルで議論はほとんどされてこなかったと言われましたが、それは違うのではないですか」と言われて面食らった。では、どんな議論がされたのかと聞くと、返ってきたのは「核兵器への反対運動はずっと続いてきたではないですか」という言葉だった。

 どうもおかしいとは思っていたが、「核戦略についての話」とは核兵器反対のことであり、ひょっとすれば私が求められていたのは、核兵器の残虐さを悲憤慷慨しながら延々と語り、核戦争反対を唱えて講座を終えることだったのかもしれない。

 しかし、冷静に考えてみれば、これは実に奇妙なことなのである。本誌の読者のなかにも、「日本は唯一の被爆国だから、核兵器廃絶を唱えるのは当然」という人がいるかもしれない。しかし、たとえば一九八〇年に評論家の清水幾太郎が「核の選択」(『諸君!』同年七月号)で述べたように、唯一の被爆国であればこそ、核戦略について世界の現実をわきまえるべきではないだろうか。

 核について語るのはタブーだといわれてきたが、右の清水論文を批判するさいに福田恆存は専門家にとどまらず核戦略について論じるのは、当時、禁忌でも何でもなかったと指摘している。それどころか、戦後の政治家たちは、公然とは表明しないようにしたが、日本も将来的には核武装するのが当然であると認識していた。

 一九五七年、岸信介首相(当時)は、現行憲法のもとで許される自衛権の行使の範囲内であれば、「自衛のためなら核兵器を持つことは憲法が禁じない」との見解を述べている。一九六二年、すでに政界から引退していたが、隠然たる力をもっていた吉田茂元首相も、日本の核武装オプションは排除されてはならないと公に述べた。

岸信介元首相(昭和61年9月撮影)
岸信介元首相
(昭和61年9月撮影)
 ヨーロッパ外遊のさいに、フランスのド・ゴール大統領に「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄された池田勇人元首相も核武装論者だった。この点について、池田の秘書だった伊藤昌哉の回想は興味深い。一九五八年ころのことである。

 「ある日、池田は、西ドイツの防衛問題にかんする新聞記事を読みながら、いきなり、『日本も核武装しなければならん』と言った。私は大いに驚いた。『広島は世界ではじめて原爆の被害をうけたところです。その地区からの選出議員が核兵器を提唱するなどとは、とんでもないことですよ』と私は答えた」(『池田勇人とその時代』朝日文庫)

 池田が退いたあとを引きついだ佐藤栄作元首相は、一九六四年に中国が核保有を世界に向かって宣言したのをうけて、実際に核保有にむけて動き出している。佐藤がどのように思考し何を追求したかは、黒崎輝氏の『核兵器と日米関係』(有志舎)に詳しい。

「佐藤栄作は中国の最初の原爆実験後、日本も核武装すべきとの考えを米国政府高官に繰り返し示していた。佐藤はナショナリズムに裏打ちされた中国に対する対抗意識から、主権国家として日本が核兵器を持つことは当然と考えていた」

 ちなみに、佐藤元首相時代の核武装論については、この黒崎氏の著作が基本文献とされているが、黒崎氏は他の著作物から明らかなようにれっきとした「反核論者」であることを知っておいたほうがよい。反核であるからこそ、日本の核武装への試みを詳細に調べつくしたのであろう。