核保有を現実に模索した時代

 佐藤政権は一九六四年十一月から七二年七月まで継続した、日本の憲政史上最長不倒距離の政権だったが、この間、核武装をめぐっては、アメリカとの交渉以外にも多くの注目すべきことが行われている。

 まず、一九六三年に国連で核拡散防止条約(NPT)が採択されて七〇年に発効したが、日本は七六年まで批准を引き延ばした。一九六七年には、当時の下田武三外務事務次官が、核保有国だけが核の恩恵を受けるという不平等に反対すると表明して、当時の社会党委員長・成田知巳に激しい批判を受けている。

 これは下田事務次官のナショナリズム的な抵抗だと批判され、また、そのため佐藤政権は下田発言を修正することになったが、最近、朝日新聞が報じたように、日本の批准延期は、対ソ・対中政策を推進していたアメリカの圧力によるものだとの指摘もある。

1969年11月、米ホワイトハウスで会談する佐藤栄作首相(左)とニクソン米大統領(共同)
1969年11月、米ホワイトハウスで会談する佐藤栄作首相(左)とニクソン米大統領(共同)
 もちろん、アメリカは核兵器を独占していた時期から、ソ連を牽制しつつ核拡散を回避しようとしていたが、日本についても占領時代の「再ビ米国ノ究極ノ脅威」とならないようにするとの「方針」は、この時代も生きていた。むしろ、それを利用して核保有国の特権を公然と指摘した、下田事務次官の深慮遠謀を記憶にとどめるべきだろう。

 また、一九六八年から七〇年までの間に、日本がはたして自力で核武装できるか否かの調査が行われた。『日本の核政策に関する基礎研究』と名づけられたレポートは、この間、内閣調査室から三冊提出された。

 中心となった識者は、物理学者の垣花秀武、国際政治学者の永井陽之助、前田寿、蝋山道雄の四人で、報告書は、原爆を少数製造することは当時のレベルでもすでに可能であり、比較的容易だと指摘している。ただし、それを有効な核戦力にしていくには、制度的な問題が多いとされた。

 さらに、この間、驚くべきことに、外務省は西ドイツと秘密裏に協議をおこなって、中位国家がこれからどのような核武装をすべきか、また、それは可能かを話し合っていた。この事実は、二〇一〇年十月に『NHKスペシャル“核”を求めた日本』のタイトルで放送され、後に『“核”を求めた日本』(光文社)として刊行されたので視聴した、あるいは読んだ人も多いだろう。

 この日独秘密協議は、一九六九年に東京と箱根で、第一回が開催された。このとき日本側の出席者は、国際資料部長の鈴木孝、同調査部長の村田良平、同部分析課長の岡崎久彦などからなっている。記録に残っている日本側の問題意識は次のようなものだった。

「NPTに署名した後、十年から十五年のうちに条約の義務から免れざるをえない『非常事態』が起こると考えている。インドのような新興国が核武装を決めることや、中国の核保有をアメリカが認めるような取り決めを行なう事態だ」

 日本は独自に核開発ができると述べて共同歩調を促した。これに対して西ドイツ側は「日本と西ドイツの置かれている状況は違いすぎる。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定することができない」と回答している。

 ちなみに、このNHKのドキュメンタリーおよび刊行物も、情緒的な反核のトーンに貫かれているが、日本人が忘れてしまっていた真摯な核との取組みを思い出させてくれた功績は多とすべきだろう。