朝日ソウル支局が協力


(2)『特別番組 汚辱の証言 朝鮮人従軍慰安婦の戦後』

 九州朝日放送のこの番組は、(1)に比べれば「ドキュメンタリー番組らしい」内容で、やはり「地方の時代」映像祭一九九二優秀賞受賞作だ。

 主に元慰安婦の「文玉珠」を中心に描かれており、彼女が福岡の団体に招かれて来日、「戦後四十七年、ようやく重い口を開き始めた」という、まるで植村記者の金学順報道の見出しのようなトーンで彼女を追うドキュメンタリー。 

 番組放映日は、一九九二年五月三十日。植村記者の金学順記事は前年の八月十一日だから、この記事の影響するところは多かっただろう。九州朝日放送制作のこの番組のエンドロールにも、制作協力として「朝日新聞ソウル支局」が名を連ねている。

 番組は文氏が日本で開催された慰安婦集会に登壇し、「平日は三十人から四十人、日曜には六十人から七十人の相手をさせられた」と語るシーンから始まる。

 そして、すぐに韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹貞玉代表(当時)が登場。尹氏は「慰安婦問題で日本は彼女たちを三度殺す」と述べ、「一、ひどいことをした。二、忘れられていた。三、謝罪がない」の三重苦を負わされていると発言。このまま謝罪がなく、日本人が日本の若者に慰安婦の事実を教えなければ「三度目の死となる」と述べる。

 場面変わって、文氏の来日支援を行った慰安婦研究家の森川万智子氏。彼女は文氏の著作『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私─教科書に書かれなかった戦争』(梨の木舎、九六年。新装増補版は二〇一五年)の構成と解説を担当している。番組では、福岡で「慰安婦一一〇番」という電話相談を受ける団体の代表として登場。「市民として過去を清算したい」と述べる。

 この番組で文氏は、「十八歳でビルマへ行った。食堂に行けば稼げると言われた」と話す。文氏の本によれば、もともとキーセン学校に通っていた文氏は、一度、憲兵らに連れられて慰安婦になったが故郷に戻り、次は友人から「食堂で働き口がある」と聞いて行ってみたところ、実態は慰安所だった。が、「やはりそうか」と納得したという。

「人間的な」兵士との交流


 文氏は番組で、涙ながらに「夜明けまで相手をさせられて死にそうでした」と述べているが、文氏の本には意外な場面が描かれている。

 それは慰安婦・文がヤマダ(仮名)という日本兵と懇意になるくだりだ。 〈わたしは一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。二、三カ月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。 「ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました」

 ヤマダイチロウはわたしに向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト(という朝鮮人の男。慰安所の引率者)公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、開店休業だ。さっそくわたしたち慰安婦も一円ずつ出し合って大宴会をしたのだった〉(文玉珠『「慰安婦」だった私』、補足は筆者)

 もちろん、過酷な記憶と楽しい記憶が共存することはありうるため、これを以て「慰安婦としての生活は悲惨ではなかった」とは必ずしも言えない。また、この本の内容は「真偽定かならぬ部分もないわけではない」(秦郁彦氏)との指摘もあるとおり、兵隊を蹴り飛ばした、刺し殺したなどの箇所もある。しかし、エピソードのすべてが創作とも思えない。