「馬鹿とLINEは使いよう」のほうが適切なレトリックかもしれない

『神田敏晶』

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神田敏晶(ITジャーナリスト)

ベッキーはLINEのCMキャラクターだった


 2011年6月、今から5年前のことだ。LINEが登場した時の最初のCMキャラクターは、あのベッキーだった。

 「無料通話、無料メール」という触れ込みで、ベッキーがLINEをしながら、泣いたり、笑ったりするというコマーシャルでLINEのマーケティングはスタートした。通常ハイテク業界のマーケティングは、パソコンに詳しいギーク層からブームが伝承され、一般に普及するという潮流にあったにもかかわらず、LINEは、最初からテレビCMというコミュニケーションで、今までのパソコンやインターネットに詳しくない層に一気にリーチされた。

日本最大のコミュニケーションインフラ


 3カ月後の2011年9月には100万ダウンロードという快挙を成し遂げた。しかし、そのさらに3カ月後には10倍もの1000万ダウンロードという脅威の成長ぶりを見せたのだ。その後、2013年には1億人を超え、2014年には、世界で5.6億人を超えた。LINEは、韓国資本のNHNの日本法人であるが、韓国で流行していた「カカオトーク」のようなものを日本のユーザー向けに日本支社で独自に開発したものだった。そして、何よりもLINEをブレイクさせたのは、「スタンプ」であった。無料でプレゼントされる公式のスタンプはあっという間に日本のスタンプにおけるコミュニケーション文化を築いたのだ。キャラクターによる感情表現、有料で購買できるユニークなスタンプ。顔文字だけのそっけないコミュニケーションから多彩な表現がスタンプで一気に可能となった。文字ベースの感情表現の不足部分をスタンプが見事に補完したのであった。

バンド「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音とのスキャンダルについて会見に臨むベッキー=東京・新宿区
 一番反応したのは女性であり、若年層であった。世界は、ソーシャルネットワークサービスが席巻していたが、ごく限られたクローズドな仲間だけで構成されるLINEの世界は、24時間オープンの「OL給湯室」となった。また、学校の放課後のおしゃべりも24時間365日可能となった。

 2015年末には、月間アクティブユーザー数(MAU)で約2億1500万人となった。

 国内利用者数は5200万人以上であり、そのうち毎日利用するユーザーは約3400万人、日本の人口の40%以上をカバーし、日本国内のアクティブユーザー率が63%という、まさにコミュニケーションの一大インフラへと成長している。もう一度言うが、その期間はたったの5年なのだ。iPhoneというスマートフォンの米国デビューも2007年で9年前のことだった。しかし、この9年間で世界中のコミュニケーションは大きく変革した。ありとあらゆるものがスマートフォンの中に統合化されていった。しかし、スマートフォンから新たに生み出されたものも多くなった。LINEは単に「メッセンジャーアプリ」とはいえないコミュニケーションのインフラとなり、もはやテレビやPCよりも、そして紙媒体よりも愛されているメディアといってもいいほどの浸透ぶりだ。

 さらに2013年7月に開始したLINEニュースは、月間アクティブユーザー数(MAU)が、2,200万人に及んだ。
http://linecorp.com/ja/pr/news/ja/2016/1202

 コミュニケーションツールでありながらも、同時にニュースも得られるツールとなった。他にもたくさんのサービスが日々追加されている。それと同時に、トレードオフの関係で「事件」も「犯罪」も発生している。

LINEというインフラの正体は何なのか?


 イジメの事件の現場は今や学校ではなく、LINEの中で起きているのだ。また、不倫もLINEから暴かれている。LINEのなりすましによるギフトカードの詐欺事件にいたるまで、すべての悪の温床はLINEの中で発生しているかのような報道がなされている。しかし、「インフラ」というものは、いつの日にも、光と影を背負う宿命にある。

 たとえば、電話が登場したことによって「脅迫電話」や「誘拐電話」という新たな犯罪がスピーディーに生まれるようになった。刑事ドラマや映画では、犯人の電話の「逆探知」という捜査方法まで公開された。クルマの登場も、馬車の時代とは、はるかに違う死者数を生み出した。しかし、1970年代には年間1.6万人もの交通事故による死亡者も、2015年には4000人規模にまで落ち着いたのだ。これは人類の叡智のあらわれと技術の進化である。我々は便利さの裏側に常に発生する暗部とのトレードオフの関係に常に晒されているが、それを習慣や技術や法律によって変えることもできるのだ。

 LINEによって造られたインフラとは何だったのか? LINEはかつて「メディア」と「コミュニケーション」という分断されていた領域を、ズタズタに崩してしまったと言える。かつて、「メディア」はごく選ばれた一部の人のみが発信することを許され、一般人はその情報を受け、限られたクローズドな「コミュニケーション」の場で消費するだけで終わっていた。しかし、LINEのようなパーソナルでクローズドでプライベートだった空間がいつしか勝手に「メディア」化し、個別の「コミュニケーション」と絡まったまま肥大化し増幅し、大事件にまで至るようになってしまった。それを「従来型のメディア」がさらに報道し、加熱させ、さらにまた、コミュニケーションと複雑に絡まり合いながら「メディア化」していくのである。大人たちは、LINEを日常的に使いながらも、子どもたちの世界でのLINEの普及の怖さに怯えるというまさに「ディスラプト(破壊)」されたコミュニケーションの状態とも言える日常となった。

 そこにはノイズもデマも、嫉妬もやっかみも、リスペクトもdisリスペクトも、カオスの状態で蠢き合っている。人類の「カルマ=業」が渦巻いているといってもいいだろう。何よりも、指数関数的にコストが低廉化したことにより、誰もが無尽蔵に無秩序に感情をぶちまけあっているのだ。さらにスマートフォンというデバイスが「おしゃべり」から「調べ物」「連絡」「議論」「協調」…などの知的だった行為をすべて包含してしまっているから、まさにコミュニケーションの玉石混交状態なのである。LINEは個別でバラバラで行われていたコミュニケーションを統合化したインフラになってしまったのである。

 それと同時に、そのインフラの世界に麻薬的に依存してしまう傾向の人たちが多くなった。一部のコミュニティーでは、本来の生活よりもLINEのクローズドな生活の方がリアル世界よりも現実的だったりもする。しかし、それを選択し依存しているのはあくまでも自分自身である。また、親や友達、ご近所、学校を越えたコミュニティが、若年層の世界に突如として出現したのだから、誰も対応方法の経験値を持ち合わせていない。親も先生たちも困惑するばかりだ。本当は自分自身の立ち位置を明確にし、情報に溺れないためには、LINEに依存しなくても生きていける自分自身が必要なのだ。…といってもまだまだ進化する黎明期のメディアであり、最適解が存在しない。本当のLINEの進化を未来から見返してみると、きっと黎明期の頃のドタバタに映ることだろう。

 「LINEはバカと暇人のもの」という本テーマを紐解くと、その責任はインフラ側にあるのではなく、利用する側のリテラシーに完全にあると思う。

 それと同時に「長電話はバカと暇人のもの」や「テレビの長時間視聴はバカと暇人のもの」と言われなくなったのは、それらが完全に当たり前となり、認識され、理解されてしまったからだ。「インターネットはバカと暇人のもの」とも言われなくなっても久しい。それは、「使い方次第」だったことを皆が理解しているからだ。

 あえていうならば、「馬鹿と鋏は使いよう」を習い、「馬鹿とLINEは使いよう」のほうが適切なレトリックなのかもしれない。どんな使えなかったハサミでも賢く工夫さえすれば、うまく使えるようになるものだ。ネガティブに否定するのは簡単だが、ポジティブに前向きに良い面を活用することによって、この「LINE」というインフラをうまく乗りこなしてほしいと願う。

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