真田昌幸の智謀と底知れぬ胆力

 突出攻撃の機をうかがっていた昌幸が馬に打ち跨って命じる。

「門を開け!」

 大手門が内側から開かれる。

「突っ込むぞ。者ども、わしにつづけ!」

 槍をしごいた昌幸が馬腹に強い蹴りを入れ、先頭切って突いて出た。旗本勢も後れをとってはならじと先を争い、剣戟刀杖をきらめかせて駆けだしていく。

 時を移さず、横曲輪へ一旦撤退していた常田と高槻が率いる部隊も横槍に突きかかり、町家に火を放った。放火も昌幸の命令だった。町人は事前に避難させており、無住となっている町家に次々と松明を投げ込んでいく。折から、強風が吹き荒れており、紅蓮の火炎は渦を巻いてたちまち四方に飛び散り、朦々たる黒煙が城下を覆い尽くす。

 さらに、昌幸が四方の山や谷に埋伏させていた領民3000余が、城内で乱打される陣太鼓の音を合図に紙旗を押し立てて群がり起こり、徳川勢の側背へ襲いかかった。城内へ入った領民と同じく、昌幸の仁慈に報いての合力であり、鳥銃を放ち、石礫を投げつける。農民は鎌や鍬を、町人は竹槍や棍棒を手にして徳川勢の撤退路に立ち塞ふさがった。

 「敵は小勢ぞ。退くな、退くな!」

 進退に窮して思わず立ち往生する徳川勢に向かって、大久保ら寄せ手の諸将が鞍壺を叩いて叱咤激励する。

 徳川勢はしかし、千曲川と神川を渡河したため戎衣は水に濡れて重くなり、戦闘能力も低下している。指揮系統も寸断されて陣形を立て直す余裕はなく、浮足立って総崩れになった。しかも堀切に落下し、千鳥掛けの柵にさえぎられ、黒煙に眼路を塞がれて進退はままならず、混乱にますます拍車がかかる。

「追え。後を慕たって皆殺しにしろ!」

 真田勢の諸将がここぞとばかりに尾撃を命じる。徳川勢の背後に槍が繰り出され、刀が振り下ろされる。一方的な追撃戦だ。

 徳川軍の将士のなかに、踏みとどまる者も踵を返す者もいない。死傷者を続出させながら雪崩を打って潰走し、かろうじて神川の渡河地点まで逃れた。だが、そこに新たな敵勢が出現した。戸石城にあって後巻の機会をうかがっていた信幸麾下800の将兵が、染谷郷から横撃してきたのだ。

 真田勢は徳川勢を押し包むように三方から攻撃を加える。神川を渡河するしか逃れる術はない。その神川は数日来の雨で増水して激流と化している。水深を探れば渡河はできるが、真田勢に追い落とされてはそれもままならず、溺れ死ぬ者が続出して勝敗は決した。

 徳川勢の戦死者は1300余、溺死者は数知れずで、真田勢の犠牲者はわずか40人ほどだった。

 徳川勢の惨敗であり、この合戦に参陣した大久保忠教は、自軍の将たちの不甲斐なさを「悉く腰がぬ(抜)けはて」「ふる(震)ゐまはりて物もゆ(言)はず」「げこ(下戸)にさけ(酒)をし(強)ゐたるふぜい(風情)なれば力もなし」(『三河物語』)と慨歎している。

 汚名返上を期す徳川勢は同月20日、丸子城を攻めたが攻略に失敗。その後、家康は井伊直政に5000の兵を預けて上田城再攻撃を命じたが、作戦を発動しないまま対峙していた11月、突然全軍を撤兵させた。

 家康の腹心だった石川数正が家康から離叛して大坂城の秀吉のもとへ奔ったため、秀吉との関係が再び緊迫して真田攻めどころではなくなったのだ。

 この上田合戦(神川の戦い)で、秀吉ですら苦戦を強いられた徳川軍を寡勢でもって撃砕した昌幸の武名は一躍天下に轟き渡り、独立大名としての地位を確立した。そして、鬼神も三舎を避けるほどの昌幸の智謀と底知れぬ胆力の血譜は、信幸・信繁兄弟に受け継がれていくのである。

 

くどう・しょうこう 昭和23年(1948)、愛媛県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。新聞社、出版社勤務を経て、執筆活動に入る。著書に『大谷吉継と石田三成』『兼続大戦記』など多数。