西上野北部の脅威を排除した氏直は、4万3千の兵を率いて7月12日碓氷峠を越え海野平(上田盆地の中心)へ進軍した。「国衆真田(中略)十三日出仕候」と『甲斐国志』にあるように、昌幸が氏直の陣に伺候したのはその翌日のことだった。

 26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。ここでも北条氏は大いに喜び、窓口となった矢沢頼綱に高井郡井上で千貫文の土地を与えている。しかし、昌幸の目は常に周囲を油断なく観察していた。信濃は北条氏だけでなく徳川家康も狙っており、武田旧臣の依田信蕃を派遣して国人衆の切り崩しをはじめさせている。信蕃は小諸城(上田の南東で、碓氷峠の玄関口)に入っていたが、12日進攻して来た北条軍によって追われてしまった。

 さらに北からは上杉景勝がすでに6月16日に川中島へ兵を出し、7月29日には景勝みずからも川中島に出陣する。

 昌幸は北条軍の先鋒として、この川中島の上杉軍に対峙し防波堤役を務めることとなった。だが、景勝と氏直が、北信濃を上杉、そのほかを北条が支配するという条件で講和すると、氏直は南下し8月10日から甲斐若神子で徳川家康の軍勢とにらみ合いに入る。

 ところが、5万以上の大軍にも関わらず1万の徳川軍に決戦を挑みもせず、それどころか局地戦では敗北を喫した氏直は、信濃国人衆からの評価を大きく下げてしまう。

 「勢い、空気というものが肝心よ。今の北条のていたらくではこの先安心して身を寄せることは思いもよらぬわ」

徳川氏にも求められ


 折りも折り、徳川方からの勧誘の手は昌幸にも及んで来ていた。「何とぞ才覚をめぐらして、真田を引付け給え」(『三河物語』)と依頼された依田信蕃、それに昌幸の弟で北条から徳川に転仕していた信尹(昌春)、もうひとり前出の日置五左衛門尉がその交渉ルートだった。9月28日付けで昌幸の家康への寝返りが決定し、家康は「本領安堵のうえ上野国の箕輪と甲斐国内で計2千貫文の土地、さらに信濃諏訪郡を与える」と宛行状を発給した。徳川方からは五左衛門尉に「真田房州(真田安房守昌幸)一味の儀、その方才覚をもって落着」と書き送り、慎重居士の家康も「誠にもって祝着」「快悦」と喜びを爆発させている。今や昌幸の存在は、信濃支配のキーマンとして唯一無二のものとなったのだ。

 だが、家康からの宛行状は切り取りの権利を与えるというものに過ぎない。これを現実にするには、昌幸自身が土地を攻め取らなければならないのだ。彼は早速行動を開始する。

 依田信蕃とともに甲斐の北条軍の背後をおびやかし、その補給ルートを寸断するとともに、箕輪攻略の準備をすすめ、また足もとでは北条方の祢津昌綱が守る小県祢津城を攻めた。このとき城を守りきった昌綱に対し、氏直は海野で4千貫文の土地を与える、と約束している。いかに昌幸の離反が北条氏にとって痛手だったか、この大盤振舞ぶりでわかるだろう。結局、氏直は甲斐・信濃における家康の優先権を認め、上野の切り取りの権利を得ることで10月末に徳川方と講和を結ぶ。ここに「天正壬午の乱」は幕を閉じたが、昌幸の戦いはこれで終わったわけではない。

 天正11年(1583)3月、昌幸は小県の西の入り口にあたる虚空蔵山さん城の上杉勢を攻め、翌月甲斐の甲府に在陣中の家康に出仕した。徳川方の史料『当代記 』には「このとき信濃の支配体制をしっかりと定めておけば平定もスムーズに進んだだろうに、何も置き目を定めず放置したために翌年羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との間で戦いが起こると真田や小笠原らが離反してしまった」とあるが、上杉氏の防波堤となっている昌幸に首輪をつけるわけにも行かない。実は3月の虚空蔵山城攻撃も、外部の敵の存在をアピールして自分の価値を高めるためのものだったとも深読みできるのだ。