家康のもとに出仕した昌幸は、対上杉防衛の重要さを訴えたと思われる。その結果はすぐに具体的な行動となった。上田築城がはじまったのだ。4月13日、昌幸の上田築城を知った上杉景勝は、「真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払うべき」と阻止命令を下す。

 海士淵(尼ケ淵)というのは、上田城の直下を流れる千曲川の河畔の名だが、そこに大量の兵を集められる城を築くことこそ肝要、と昌幸は家康を説得し築城許可を得たのだろう。
上田城
上田城
 この頃景勝は、家康が虚空蔵山城に軍勢を派遣して攻撃させるという情報にも接しているが、その徳川軍を収容し攻撃拠点となりうる規模の城を築く必要がある、と昌幸が主張した可能性は高い。『真武内伝』(真田家の編纂史料)に「(家康から)上田の城を給う」とあるのは、そのあたりの事情を反映しているのだろう。あるいは、その修築費用も家康のふところから出されたかもしれない。

 当初の上田城は東に大手を向け単純な方形の本丸を一重の堀で囲み、その周囲は河川や沼を自然の外堀とした単純なものだった(『天正年間上田古城図』)が、それでも大軍の集結にはじゅうぶんな広さを持ち、とりあえず翌年には粗々完成したという。

 北条との手切れ後、昌幸は沼田城に入っていた北条勢を追い払って城を取り戻していたが、6月7日、矢沢頼綱を沼田城守備につかせる。真田氏は徳川傘下で上田と沼田、ふたつの大城を東西に持つ大勢力となった。だがこのあと昌幸は上杉景勝に寝返ることになる。

上杉氏への接近


 その原因は、家康にあった。北条氏直との講和の際に「上野の領有権は北条方に」と取り決められたことは既に述べたが、天正12年(1584)3月になって家康は羽柴秀吉と交戦状態(小牧長久手の戦い)に入る。その後も冷戦状態が続くなか、西に大兵力を待機させなければならない家康は、北条側から条件の履行をせまられ、沼田城の引き渡しを求められると拒否することはできなかった。

 家康は昌幸に沼田割譲を内々に打診したものの、拒否されたのだろう。6月、家康は室賀義澄(正武)という者に昌幸謀殺を命じる。「はかりごとを以て真田を討つべし」(『加沢記 』)。

 義澄は上田近くの国人領主で、かつて昌幸に敵対したあと随身した人物だったが、これを知った昌幸は逆に義澄をだまし上田城に招いて暗殺する。「近いうちに家康とは手切れとなるだろう」。先を読んだ昌幸は、上杉景勝と羽柴秀吉にひそかに接近していくのだ。

 天正13年(1585)4月、昌幸は家康からの正式の使者に対し、「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか!」と大見得を切ってみせた(『上田軍記』)。言うまでもなくその背景には上杉という「保障」がある。徳川と決裂した昌幸は正式に上杉への帰順を申し入れ、7月15日に寝返りが決定する。景勝は昌幸に対し小県・沼田・吾妻への援軍派遣を保証し、大幅な加増も約束していた。昌幸側からは次男の弁丸(のち信繁、一般に幸村)が人質に出され、閏8月2日第1次上田合戦が始まる。

 戦後の11月、羽柴秀吉は昌幸に「家康との紛争についてはこちらで直接裁定する。今回は許すから、早々上洛せよ」との朱印状を発した。これは直前に始まった九州征伐で秀吉が大義名分とした「惣無事令」を適用し、家康と昌幸の戦いを「私戦」と断じたもので、これによって昌幸は家康と停戦、秀吉政権から豊臣大名として公認されたことを意味する。

 12月、昌幸は地元の信綱寺に旧主・武田信玄の菩提所を建立すると宣言したが、これは信玄の薫陶によって得られた智恵と経験で大乱を生き抜いたことへの感謝とともに、過去と決別して新たな道を歩む決意を示すものでもあったのではないだろうか。

はしば・あきら 昭和37年(1962)、大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に歴史研究・執筆を行なう。著書に『真田三代―幸村と智謀の一族』『新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』など。