日本政府に裏切られた気分


 その夜遅くドイツに戻ると、慰安婦問題での日韓合意のニュースが飛び込んできた。これには、心臓が止まるほどびっくりした。

 慌てて日本の報道を見ると、主要紙のオンラインニュースでは、「安倍首相の外交勝利」「日韓の仲直りへの期待」など、肯定的な見方がほとんどだ。日韓が対立を続けると、対中共同作戦を立てられず、日本も困るがアメリカも困る。そのためアメリカからの強いプレッシャーがあり、今回の合意が成立したという。いずれにしても、日本が妥協し、韓国大統領の顔を立てれば、日韓関係が改善され、日本の国益にも適うはずという理屈だ。日本政府は戦略的に、「名を捨てて実を取る」作戦に出たのであろうか。

 たしかに日本国内では、一昨年の朝日新聞の謝罪により、これまでの慰安婦についての報道の多くが誤りであったということもわかり、国民のあいだでは、不毛な争いにはそろそろ終止符を打ちたいという機運が高まっていた。安倍政権が、当時の兵隊相手の売春婦の存在を否定しているわけではないことも、皆、わかっている。つまり、今回の合意をもって「解決」としたいという土壌が、すでに出来上がっていたのかもしれない。
0ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦像のそばで、日韓合意に抗議する3人の男性=2015年12月29日、韓国・ソウル(藤本欣也撮影)
ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦像のそばで、日韓合意に抗議する3人の男性=2015年12月29日、韓国・ソウル(藤本欣也撮影)
 しかし、海外にいる日本人の立場からいわせてもらうと、まったく違った話になる。「慰安婦」はドイツではTrostfrau(慰め女)という変な言葉に訳されているが、ここで流れたニュースの内容は、極悪非道の日本軍に「性奴隷」として奉仕させられた20万人の少女や女性たちの多くは、虐待と拷問で生きて帰ってこられなかった。なのに日本軍は都合の悪い証拠を隠滅し、以後、歴代の政権は、慰安婦の存在自体を否定しつづけた。ところが、このたび安倍政権がようやくそれを、軍の関与をも含めて初めて認めた。そして謝罪し、10億円の慰謝料を払うことになったというものだ。

 もちろん、これらの話は多くがおかしい。20万人というのはものすごい水増しだし、性奴隷は嘘だし、それを拷問して殺す理由も不明だ。また、軍指導の強制連行があったかどうかはいまだに争点。一方、売春婦は公募制で、ちゃんとお給料が払われていたという主張はかなり信憑性が高い。しかも日本政府は謝罪をしており、国家間では補償も済んでいる。

 日本人なら、たとえどんな意見の人でも、そういう知識はいちおうもっているし、何が争点かも知っている。しかし、外国では誤った情報だけが独り歩きしてきたため、たいていのドイツ人は、今度こそ安倍首相も逃げきれなくなって謝ったのだと解釈した。首相が韓国の言い分の一切合切を認めたのだから、そう思っても当然だ。このうえ将来、少女像の撤去で揉(も)めたりすると、かえって日本は卑怯だとか傲慢だとかいわれかねない。

 じつは慰安婦問題については、いままでも、誤解を正すために海外で地道な努力を続けてきた日本人が大勢いた。彼らにとって今回の合意は、弾が後ろから飛んできたようなものだ。日本政府に裏切られた気分だろう。とくにアメリカ、カナダ、オーストラリアなど、少女像の立っているような町の日本人は気の毒でたまらない。学校で日本の子供が虐められるなどという話を聞くと、同じ海外に住む人間としてとても心が痛む。

 さらにいうなら、名を捨てて実を取るということは、かつて日本のために戦った兵士全員に、彼らが犯さなかったかもしれない罪をなすりつけることにならないか。とっくの昔に死んでしまった人の名誉より現在の国益? しかし、それは取りも直さず、私たちの父親や祖父の名誉なのだ。私たちが犠牲にしたものは大きいと思う。