にも関わらず、世間は「AV女優が新聞記者をするなんてけしからん」と言う以上に、「こんな下世話な記事を載せるなんて前近代的でけしからん」と文春に蔑視に近いような感想を述べてくれた。そして、そういうことを言うために同記事は結構な場所でとりあげられ、引用された。世間を騒がすほどのことではなかったけれど、反応を注意深く見ていた私は、そのとてもわかりやすく週刊誌的であり世間迎合的な記事を載せたことで、極めて週刊誌的で下世話であるという眼差しを甘んじて受けている文春が、やはりとても嫌われることを腹積もっているように見たのである。私や、私の家族や、日経社員にだけではなく、週刊誌的見出しに食い付き、雑誌を喜んで買う読者たちにである。

 取材先や、記事が大枠として含んでいる対象に嫌われる覚悟は、記者になくてはならない素質ではあるが、時に読者にすら嫌われる覚悟を、どれだけの記者たちが心に止めているだろうか、と私はその時に思った。そして、その覚悟の代わりに彼らがもっている拠り所はなんなのだろう、と。

 おそらくそれは、世間にある欲望を肩代わりしている自負なのではないだろうか。優等生的タレントの陰部を見てみたい、生真面目な政治家に黒さがほしい、といった、世間一般がむしろ胸中にもっている週刊誌的下世話な欲望を、あえて外から出して見せることで、世間は自分のそのような欲望を満たしながら、否定できる。週刊誌が代わりに体現しているその下世話さを、嫌いながら楽しめるのである。最近の文春の鮮やかなスクープ連発を見て、私は取材力やタレコミの多さ以上に、そういった週刊誌の宿命と命題のようなものが徹底された姿勢に、甚く感心している。