レギュラーコメンテーターを選ぶにあたり必要とされる資質とは何か。経歴・学歴などのバックグラウンドはもちろんの事、知名度、権威、個性に加え、清新さ、話のうまさ、ルックスなどが上げられる。要は誰が見ても、「この人のコメントは心配ないだろう」という人が選ばれるのが普通だ。

 一方、日々のニュースに関して呼ばれるコメンテーターについては、上記のようなことは言っていられない。何しろニュースは待ってくれない。あらゆるニュースが飛び込んでくる。そのニュースに関してコメントしてくれる人は誰なのか、担当ディレクターは電話をかけまくったり、ネットで検索しまくったりして、人を探すのだ。必死である。なにせ時間との勝負なのだ。見つかりませんでした、は許されない。時には社内の専門記者や解説委員にアドバイスを仰いだりする。一見の人を呼ぶより、社内の人間の“お墨付き”がある方が安心だし、パイプがあれば出演交渉もスムーズになるからだ。

 さて、話をショーンK氏に戻そう。彼がどのような経緯でレギュラーコメンテーターに選ばれたのか小生は知らない。気づいたときはいつの間にか画面の常連になっていた。正直、知名度がある人ではなかったので、初めて彼を見た時は「誰?」という素朴な疑問を抱いたのは事実だ。番組として、他の情報番組の常連ではない、斬新でユニークな人を選ぼう、という意思が番組内で働いたものと思われる。

 そうした時には、プロデューサーの声が大きい。何といっても番組のヒトモノカネを握っている権力者なわけで、彼がNoといったものはNoだし、YesといったものはYesなのだ。したがって、学歴・経歴詐称を行った人間をレギュラーコメンテーターに決定した責任は番組プロデューサーにある、と私は考える。

 次の読者の疑問は、「コメンテーターの経歴は調べないのか?」というものだろう。答えは、Noだ。自己申告、もしくはネット上の情報以外に独自にその人の経歴を洗い直すことは通常しない。ある意味性善説にのっとっていると言ってもいいだろう。実は小生も経験がある。自分の担当する番組で準レギュラーとしてとある識者を推薦したのだ。立派な肩書・経歴だったし、疑う余地はなかった。当然、誰も異を唱えることはなかったし、プロデューサー含め反対はなかった。その人物のコメントは切れ味も鋭く、なるほど、と思うものが多かった。期待以上の仕事をしてくれたのだ。しかし、しばらくして突然、その人物の学歴詐称問題がネット上に出現した。結局、編集会議でその人物の出演は見合わせることを決定した。テレビに出るコメンテーターの学歴・経歴についてはこれまで精査されてこなかったのだ。自分も含め、この点は大いに反省しなければならないし、システムそのものを見直さなければいけない、と思う。

 いずれにしても、これだけ大っぴらに詐称が行われていたことを見ると、今後、報道番組や情報番組に出演する人は全て、経歴や学歴にうそがないか、チェックする必要が出てきた。さもないと、テレビ局はとんでもないレピュテーションリスク(信頼性を毀損するリスク)を負うことになる。まるで、閣僚任命前の“身体検査”のようだが、仕方がない。

 ニュースの中身を正しく理解し、深い洞察に基づいて視聴者に新たな視点を提供するようなコメンテーターがベストだ。急逝したジャーナリスト竹田圭吾氏のような人だが、そういう人は少ない。見てくれや喋りのうまさ、その時その時で話題になっているというだけで選ばれた人がコメンテーターとして画面に出ているのが実態だ。

 情報番組はこれまで「視聴者の目線に沿った」人をコメンテーターとして選んできた。一般市民の目線でコメントしてくれる人を視聴者も受け入れ、楽しんできた側面は否めない。私たちはそこに「深さ」を求めてこなかった。しかし、現代はネット上に様々な情報が溢れている。誰もが瞬時に情報を入手できる今、視聴者の意識は大きく変化した。コメンテーターの発する言葉は瞬時に評価され、その評価はネット上に拡散されていく。適当なことを“喋くり倒して”いれば良い、という時代ではない。毎秒毎秒、“真剣勝負の世界”だと知るべきである。さもないと視聴者を愚弄することになりかねない。テレビ局が思っている以上に視聴者は情報を持っており、賢いのだ。

 ショーンK氏が何故学歴・経歴を詐称するに至ったかについては筆者は知る由もない。しかし、彼を選び、番組に出し続けたメディアの責任は重い。彼を起用していたテレビ局やラジオ局がどのようなコメントを出すのか、視聴者は見ている。