だが、そうはいってもやはり「秀吉はいい人」というイメージを抱いている人は少なくない。秀吉の「大魔術」、つまり後世に対する情報操作はそれほど卓越しているのである。

 しかし、やはり真実は隠せない。最近、秀吉が忘恩の徒であることを証明する史料が発見された。秀吉の腹心で天下取りに大きく貢献した大名脇坂安治(初代龍野藩藩主)に、天下取りまっただ中の秀吉が細かく指示を出した手紙がまとまって発見されたのである。脇坂家の領地にあった龍野神社(兵庫県たつの市)の旧蔵文書からである。

 その内容を簡単にまとめると、まずアメとムチが目立つ。安治の仕事ぶりを責め、こんなことでは担当者を代えなければならないなどと脅すのである。そのうえで本人の適性を見極め能力を最大限に発揮させる。この史料の整理に当たった東京大学史料編纂所の村井裕樹助教は「天下人でありながら、しつこいぐらい細かい性格」(2016年1月21日神戸新聞電子版、以下引用は同記事)と述べている。

 そして極めつきは1585年(天正13)秀吉から安治に宛てた手紙であろう。「秀吉の御意に違う侯輩(ともがら)、信長の時の如く少々拘(かか)え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事(くせごと)たるべく候(秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のようにかくまっても許されると思い込んでいると処分する)」というのである。信長の死後をわずか3年しか経っていない。この時点で秀吉は大恩人信長を呼び捨てにしているのである。まだ関白になったわけでもないのに、いかに親しい間柄宛ての手紙とはいえ、呼び捨てはないだろう。つまりこれが秀吉という男の本当の姿なのである。しかも秀吉自身が信長の時代のように甘くはないぞ」というからには、多くの人が抱いている「信長は残酷だが秀吉は優しい」というイメージも実は「大魔術」に乗せられたものだとわかる。

 これから先は推理だが、なぜこんなにたくさんの「秀吉の意思に背く者ども」が出たのだろうか?それは秀吉の織田家に対する仕打ちはあまりにも酷いと思っていた人間が大勢いたということではないか。その筆頭であった柴田勝家は賤ヶ岳の合戦で敗北し死んだが、裏切りによって戦いを勝利に導いた前田利家はちゃっかりと生き残り秀吉政権下では重く用いられた。

 だが秀吉が死に利家も後を追うようにこの世を去ると、前田家は直ちに家康に人質を出してその傘下に入ることを表明し、石田三成の「家康討つべし」の呼びかけにも応じなかった。そして、一時はその呼びかけに応じ関ヶ原に西軍として出陣した大名のうち、まさに賤ヶ岳の合戦における前田利家のように、最初から西軍を裏切り家康に味方することを決めていた武将がいる。脇坂安治である。

 要するに関ヶ原の敗戦、そして豊臣家の滅亡は秀吉の「不徳のいたすところ」であるというのが私の考えである。