一方には、部活動どころか、学校の位置づけの曖昧さが顕著になっている現実もある。

 学校は「勉強するところ」なのか、「人間形成の場、人格的な教育の場」なのか。また、「勉強は学校でするのか」「受験勉強は塾でするのか」という問題も併せ持っている。

 いまの時代、人格形成を施す指導を明快な哲学を持って推進すると、過剰な思想への関与だと批判されかねない。学校にそこまで深い人格指導は求められていない。つまり、学校の存在こそが曖昧なのだ。

 6歳から15歳までの少年少女が、「朝から午後(夕方)までの時間を集団的に過ごす社会的な場である」という以上の機能を学校が果たし得ない状況が出来上がりつつある。

練習に励む女子サッカー部の選手たち。
練習に励む女子サッカー部の選手たち。
 部活動は学校でなく、「地域のスポーツクラブなどで行えばいい」という主張も高まっている。現実に水泳や体操、テニス、サッカーなどの競技で本格的に上位を目指している少年少女たちの多くは学校の部活動ではなく、専門のクラブやスクールに所属し、競技力向上を目指すのが一般的になっている。野球も同じで、高校野球の強豪校に進学し、いずれプロ野球を目指したいと考えている選手の多くは、部活動でなく、シニアやボーイズと呼ばれる地域のチームの門を叩く。

 「部活動はやりたくない!」という選択権を与えるべきだという訴えはもちろん理解できる。「教員にも適正な労働環境を!」という主張にも賛同する。だが、一方で学校の現実をもっと全体的な視野で捉える必要がある。

 専門的な役割を教員以外の外部が担う傾向が進む現実の中で、学校の先生は「何をする人」になっていくのか?

 不登校やイジメなどに対する相談は「カウンセラー」が担当する。スポーツや音楽などの部活動は「専門の指導員」が外部から起用される。

 勉強は、先生が教えるつもりかもしれないが多くの親子は「受験勉強は塾で教えてもらう」と思っている。授業は塾の講師に依頼した方が「成果が上がるのではないか」との議論も出始めている。実際、教育委員会の意向で「塾の講師による講習を受けさせられた」と憤慨していた友人(高校教師)の声を聞いたことがある。

 「授業に最大の誇りを持つべき教員が塾の講師に教えを請う時代になって、教師の誇りや存在意義はどこに行くのか」と彼は嘆いていた。授業さえ外部スタッフに任せる潮流が生まれたら、本当に学校の先生は「何をする人」になるのだろう?

 先生は、生徒たちの悩みと向き合う必要もなく、部活動を通して触れ合う必要もなく、進路に関わる受験勉強の責任さえ求められない。

 私はいま地域に根ざす中学生の硬式野球チームの監督を務めている。学校の部活動で野球をするのでなく、地域のチームを選んだ中学生たちと放課後と週末を利用して、野球を通した人格づくりに取り組んでいる。クラス替えなどの話題を報告してくれる中学生たちの言葉や表情から感じるのは、「中学は友だちとの愉快な場であり、担任はその愉快な場を邪魔せず、心地よい空間を醸成してくれる、“わかっている人”がありがたい」といった感覚だ。