西修(駒沢大学名誉教授)
-ひとつの妖怪が日本国を徘徊(はいかい)している。それは立憲主義という妖怪である-
ご存じ、マルクスとエンゲルスの共著『共産党宣言』の冒頭をもじったものだ(同宣言中のヨーロッパを日本国に、共産主義を立憲主義に言い換えた)。
横行する手前勝手な決めつけ
近年、いろいろな場面で立憲主義という言葉が用いられている。ただし、正確に使用されているとは言いがたい。一部のメディアなどが盛んに唱えているのは、「憲法とは国家権力を縛る」ものと定義づけ、「国民は憲法を守る義務を負わない」「集団的自衛権を全面的に禁止していた政府解釈を変更することは立憲主義の破壊である」などの言説である。
はたして立憲主義に関するこのような捉え方は、正しいだろうか。
第1に、「憲法とは国家権力を縛るもの」という定義それ自体がいたってあいまいである。そのあいまいさをよりどころにして、自分たちの意に沿わない行為が国家によっておこなわれれば、立憲主義違反と決めつける。実に手前勝手な立憲主義論が横行しているように思われてならない。
立憲主義の本質は、国家権力の恣意的行使を制約することにある。
国家の役割がきわめて肥大化してきている今日、国家の機能もそれだけ大きくなる。それと同時に、ともすれば国家はその権力を濫用(らんよう)するおそれがある。そのような権力の暴走を阻止するのが、立憲主義の根本的な考え方である。国家権力が恣意的に行使されているかどうかは、民主主義のルールによって定まる。

第2に「憲法を守らなければならないのは、国家権力保持者であって、国民ではない」と唱えられる。その根拠としてあげられるのが、憲法99条の規定である。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。ここに国民が入っていないことを理由に、国民は憲法尊重擁護義務を負う必要はなく、またそれが立憲主義の原則にかなうと主張される。
曲解といわなければならない。現行憲法の採択が審議された帝国議会で、憲法担当国務大臣の金森徳次郎氏は、次のように述べている。「日本国民がこの憲法を守るべきは理の当然でありまして、ただこの第95条(*現行の第99条)は、憲法という組織法的な一般的な考えに従いまして、権力者または権力者に近い資格を有する者が憲法を濫用して、人民の自由を侵害する、こういう伝統的な思想をいくぶん踏襲いたしまして95条の規定ができております。国民が国法に遵(したが)うということはいうまでもないことでありまする」
要するに、憲法の尊重擁護義務は、ふだん権力を行使する立場にある公務員などを「特別に」対象にしたものであって、国民が憲法を守るべきは「理の当然」だから、条文の中に入れなかったというだけのことなのである。
世界の憲法をみると、多くの憲法に国民の憲法遵守義務が定められている。たとえばイタリアの憲法には、以下の規定がある。「すべての市民は、共和国に対して忠実であり、憲法及び法律を遵守する義務を負う」
国の存立のための集団的自衛権
第3に、集団的自衛権に関する今回の政府解釈の変更は、立憲主義の破壊になるだろうか。政府は9条に関連し、何度も解釈を変更してきた。当初は自衛権すら否定するような答弁をしていたが、警察予備隊、保安隊時代は「近代戦争を遂行するに足る兵力ではないので合憲」との解釈を示し、さらに自衛隊が発足すると、「自衛のため必要最小限度の実力は憲法で禁止する戦力に当たらない」との解釈に変えた。論理より現実を先行させた解釈の変更といえる。
政府が自衛隊発足以来、解釈を変えていないのは、「必要最小限度の自衛権の行使」は憲法に違反しないとの立場である。今回の解釈変更は、その「必要最小限度の自衛権の行使」を、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる明白な危険がある場合」に限定して、集団的自衛権の行使を認めたにすぎない。従来の解釈変更より、論理性は保たれている。
政府の最大の任務は、国の存立と国民の生命および諸権利を保全することにある。それはまた、立憲主義存続の前提でもある。国際社会の厳しい現実を直視すれば、限定的な集団的自衛権の行使は立憲主義の破壊ではなく、むしろ立憲主義の存続要因という結論に帰着するはずだ。
「国家権力は敵」という独善的な考え方のもとに、自分たちの政治目的を実現するために立憲主義という言葉を利用する-いわばポピュリズム憲法論が、現代日本に徘徊している妖怪の正体と映る。(にし おさむ)
