子どもは迷惑をかけながら育てるもの

 市川市の保育園について、いい意味で賛否両論出ていたと思う。子どもがうるさいから反対するのかとか、説明なしに建設を進めるのはよくないとか、道路が狭すぎて子どもたちに危険ではないかとか。どれも正しいと思う。

 だが私が強く言いたいのは、議論の前提として「ではどうすればここに保育園がつくれるか」を置くべきでは、ということだ。説明が遅れたからちゃんと説明せよ、それはそうすべきだろう。でも説明不足だから建てるな、ということでいいのだろうか。道路が狭いのは確かに危険だろう。では安全を確保するにはどんなルールが新たに必要か。そういう議論がなされるべきではないのか。

開園が断念された保育園の建設予定地。目の前の道路は狭く、住民から安全上の不安を訴える声が多く上がっていた=市川市菅野(大島悠亮撮影)
開園が断念された保育園の建設予定地=千葉県市川市菅野(大島悠亮撮影)
 反対運動をあちこちで取材すると、共通しているのは、反対側は「保育園は必要だが、ここは向いていない」と主張することだ。道が危険だ、騒がしい、とネガティブなことを並べ立てるのだが、そんなことを言いはじめたら、100%問題ない保育園じゃないと建てられなくなる。結局、反対側の人びとは、保育園は必要だろうが自分に迷惑をかけるなと言っているのだ。

 誰にも迷惑をかけずに子どもを育てられるはずがない。私はみんなに、そのことに気づいてほしい。子育てするなら迷惑をかけるなという人は、子育てをするなと言っているも同然なのだ。

 いや、自分は人様に迷惑をかけずに成長したし、結婚してからも誰にも迷惑をかけずに子どもを一人前に育てた。そう胸を張る中高年は多いだろう。だが、それは大きな勘違いだ。

 例えば私は九州出身で、福岡市の郊外の住宅街で育ったが、町中が遊び場だった。公園もあったが、空き地もいっぱいあって友だちと秘密基地をあちこちにつくったものだ。道路も舗装がまだ少なくて、遊び場の中に組み込まれていた。そんな子どもたちを、町は許容していたのだ。いたずらをして知らないおじさんに怒られたことはあっても、遊び回ることそのものを叱る人は一人もいなかった。元気な子どもの迷惑を、迷惑とも思わない社会がそこにはあったのだ。

 自分の子育て時代も、小さな子どもたちがたくさんの迷惑をかけた。もちろん親としては迷惑をなるべくかけないように気をつけていたが、「赤ちゃんは泣くのが仕事だからねえ」とたくさんの見知らぬおばさんたちに言ってもらった。その頃住んでたマンションの人びとが私の子どもたちをかわいがってくれたし、コンビニのおじさんは時々子どもたちにオマケしてくれた。

 だから私は成長できたし、子育ても楽しくできた。迷惑をいっぱいかけたと思うが、そのことで叱られたことなんてなかった。

 保育園に反対する人たちは、それなりのいい住宅街の住人が多く、やっと手に入れたマイホームでようやく老後を過ごそうとしているのだろう。静かな土地だから高いお金を払ったのに、子どもたちの声を毎日我慢しなくてはいけないのかと感じているのだろう。だが考えてほしいのだ。子どもたちが育つ場が必要なら、自分たちでその迷惑を引き受けてみようかと。自分が育つ時、自分が育てる時、町中に助けてもらい、手を貸してもらったからここまで来れた。だったら今度は、若い世代に手を貸してあげてもいいのではないか。静かに過ごすはずが賑やかになってしまうけど、昔笑ってくれたおばあちゃんのように、自分も子どもたちに微笑みかけてあげようと考えてはくれまいか。誰とも交流しない静かな老後より、子どもたちと賑やかに関わる老後のほうが、ずっと幸福だと思う。