ところで、技術がもつ、道具性と自立性というこのような二極性は、現代に始まったことではない。西洋哲学の文脈で言えば、二千年前にすでに古代ギリシャの哲学者プラトンが、師のソクラテスの口を通して論じていたことだ。彼が議論の対象としていた技術は「文字」である。忘れてはならないが、今では当然のごとく使用しているけれども、文字は人間の発明品にほかならない。文字発明以前の社会は無文字社会であった。だから文字は自然の産物ではなく、人間の技術―今やたとえローテクに属しても―の産物でなのである。発明された文字を目前にした古代人たちの感嘆や不安の念を追体験するは困難であるが、おそらくそれは、従来不可能と思われていた、驚異的な新技術に接したときの今日の私たちの感嘆と不安の念、あるいは称賛の声と恐怖の感情とさほど変わらないものであったことだろう。要するに、先に言及した技術にまつわる相反する二極性についての議論は、これほど古い由来をもっているのであり、それどころか、この二極性は、時代を経るにしたがって強力さをますます増加させながら人間に憑きまとって離れないのである。

 技術についてのプラトンの議論を垣間見るために、彼の著作『パイドロス』を読んでみよう。(なお、ここでの分析は、フランスの哲学者ジャック・デリダが「プラトンのパルマケイアー」[1]でおこなった議論を出発点にしている。)プラトン(そして彼の師ソクラテス)は、技術としての文字というテーマを、ヒエログリフを発明した古代エジプトに遡りつつ、その神たちに『パイドロス』で議論させている。技術の神「テウト」は、自分が発明した文字を神々の王「タモス」に紹介し、文字によって「エジプト人の知恵はたかまり、もの覚えはよくなる」[2]と進言する。文字で書き留めることで、人間の知恵と記憶は向上するというのだ。しかし、これを聞いた王タモスはこう揶揄する。曰く、そうなると人間は文字に依存するようになり、かえって忘れっぽくなり、記憶力は蔑ろにされるであろうし、また文字で書かれた内容を真に理解することなく振り回して、知恵の見せかけだけを吹聴することになるであろう[3]、と。文字は、技術の神テウトが喧伝するのとは「正反対の効能」[4]しかない、と王タモスは批判するのだ。

 テウトの言は時代遅れの戯言ではない。テウトの提案は、記憶を文字という、人間の外部に委ねよう、というものであったが、コンピュータ技術を通じて私たちが求めてきたことは、テウトの提案と同様に、記憶を外部化してコンピュータの記憶に委ねよう、ということにほかならない。その具体的事例としては、昨今、記憶はコンピュータに委ねて、記憶力のみの試験の見直しをするという提案がなされていることを思い起こせば充分であろう。また、知恵について言えば、AI技術を通じて私たちが目指していることは、知恵や知能を人間の外部機械であるコンピュータに置き移すことであるが、これはとりもなおさず知恵の外部化にほかならないのであって、要するに、これも、文字という外部に知恵を置き移そうとした、技術の神テウトのアイデア以外のなにものでもない。

 ところで、王タモスの口を通じて文字という技術に対して警戒を発するプラトン・ソクラテスは、話し言葉(対話)こそが、真理の探究である哲学の営みにはふさわしいと考えている。というのも、文字、書き言葉は、「いつもただひとつの合図をするだけ」[5]であり、その中身を理解する能力のある人のところであろうと、そうでなかろうと「転々とめぐり歩く」[6]ことになるからだ。つまり、話し言葉の場合、フェイス・トゥ・フェイスで対話をすることで、誤った理解については即座に訂正させ、真理に向かって議論を進めることができるのに対して、文字という、書かれた言葉の場合、書かれたテキストは書かれたテキストのままであり、それ以外を黙して語らず、それどころかそれを読む人の勝手な理解に委ねられて、転々と一人歩きを始めてしまうというのである。当該テキストの著者の意図は、文字にされることで、曲解されて、変質を被る危険があるのであり、書かれた言葉である文字は、それを書いた者から離れて、その者の意図を凌駕していくリスクがあると警告しているのだ。