再度、人間が技術において自分を外部化する過程を振り返ってみよう。プラトンが言っていたように、こうした外部化は「効能」を求めてのものであった。要するに外部化は、人間の欲求を充足させるためにおこなわれるのであり、外部に結実した技術は、人間の欲求・欲望が成就した姿なのである。たとえば、文字は、記憶しておきたいという欲求を叶える技術であり、またAIは、人間の知性の代替を担わせたいという欲望を具体化させる技術である。そうであれば、外部に展開される技術とは、もともと私たちの内側にあった欲望の対象が外側に具現化された姿であると言いうる。それは私たちの理念が私たちの外側で成就された姿なのだ。

 このように考えるならば、私たちはそうした外部に置かれた技術を自分のものとして所有し、身に着けようとするであろう。文字であれば、学習を通じてそれを習得し、身に着けることで記憶の強化のために役立てる。事実、私たちはそのようにしてきたし、現在もそうしている。では、AIの場合はどうか?AIも私たちの知性の外部化であるならば、私たちはそれを手に入れようとするであろう。つまりAIを吸収し、自分のものとするであろう。さらには、AIと融合さえしていくであろう。
 ご存知のように、押井守監督のアニメ作品『攻殻機動隊』のエンディングで、サイボーグである草薙素子は、「人形使い」というAIと「融合」する。前世紀末にリリースされたこのアニメ作品は、当初はもちろん純粋なSF作品として受容されたであろう。しかし、同作品で描かれる社会のインフラとなっているBMI技術の一端が現実化し、AIが予想以上に進化しつつある現在、この作品の意味は改めて熟考する必要があろう。

 とはいえ、AIと融合するサイボーグ技術には、具体的にどのような方途があるのだろうか?現段階では、わずかなアイデアしか存在しない。たとえば、脳科学の分野で、脳の内部を読み取るデコーディングの研究がおこなわれているが、このデコーディングした情報をウェッブ上にアップロードするというものである。こうしたアイデアは、これからいくつものハードルを越え、ブレイクスルーを経て、実験検証を重ねていかねばならない―それを遂行するが人間であろうと、AIであろうと―ことは言うまでもない。また、その際に安全性といった基準をゆるがせにすることは、もちろん絶対にあってはならない。しかし、いずれにせよ、私のこの論考は現段階ではアイデアにとどまるという意味では、たんなる宣言でしかない。

 プラトンは先の『パイドロス』で、対話としての話し言葉を「生命をもった言葉」[10]であると言い、書かれた言葉はその「影」[11]にすぎないと語っていた。つまり、書かれた言葉は話し言葉の劣化した、いつ消え失せるやも知れぬコピーにすぎないというのだ。人間を凌駕する可能性をもったAIの出現を見据えて、人間のサイボーグ化を考えるならば、本当の生命をもった話し言葉にとって、書かれた言葉が劣化した影にすぎなかったように、サイボーグ化された人間の生命は、もはや生命とは言えないような変容ないし変質を被っているかもしれない、しかしながら、そうした状況は、「人間」が「生きながらえる」ためには不可避の事態なのではないだろうか?

[1] ジャック・デリダ「プラトンのパルマケイアー」『撒種』藤本一勇ほか訳、法政大学出版局、2013年所収
[2] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、134頁。
[3] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、134-135頁参照。
[4] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、134頁。
[5] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、136頁。
[6] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、136頁。
[7] ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」『猿と女とサイボーグ』高橋さきの訳、青土社所収、二八七頁。
[8] Kevin Warwick, I, Cyborg, Century, 2002, p. viii.
[9] Kevin Warwick, I, Cyborg, Century, 2002, p. 1.
[10] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、137頁。
[11] プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967年、137頁。