「近代化のトップランナー」の背景


 佐賀藩といえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠れ』のイメージが強いかもしれません。しかし、実は蘭学の登場も他藩より早く、安永3年(1774)に杉田玄白と前野良沢が『解体新書』を翻訳した頃には、すでに島本良順が藩内に蘭方医の看板を掲げ、その門下からやがて伊東玄朴、大石良英、山村良哲らの名医が育っています。

 背景には江戸時代初期より、佐賀藩が幕府より命じられていた長崎警固役がありました。

 江戸時代の日本の対外関係は、その多くの時期が〈長崎口〉〈対馬口〉〈薩摩・琉球口〉〈松前口〉の4つの窓口を持つ、いわゆる「四つの口」体制を採っていました。〈長崎口〉は長崎における中国人・オランダ人との通商関係、〈対馬口〉は対馬藩を仲介役とした朝鮮国との交隣関係(通交関係)、〈薩摩・琉球口〉は薩摩藩を通じた琉球王国(日中両属)との宗属関係、〈松前口〉は松前藩を通じたアイヌ民族との関係を言いますが、いずれも中国(明国・清国)を中心とした冊封体制(東アジア朝貢体制)の周縁部にありました。〈長崎口〉は「西洋」を垣間見る唯一の窓口でした。

 このような「四つの口」体制になる前に、16世紀から盛んに通商を行なっていたのがポルトガルです。寛永17年(1640)、ポルトガルは通商再開を求めて、長崎へと使節船を派遣しましたが、幕府はポルトガル船を焼き払うなど拒絶します。そして、時の3代将軍家光が、ポルトガルの報復を恐れて設けたのが長崎警固役でした。

 長崎警固役とは、長崎警備の軍役のことで、寛永18年(1641)に福岡藩に命じられ、次いで翌寛永19年(1642)に佐賀藩にも命じられ、1年交代で軍役を務めました。佐賀藩が、この長崎警固役を命じられたことは、その後の佐賀藩の進路に影響を与えました。

迫りくる列強の脅威を前に


 長崎警固役は、大きな財政負担を要しますが、一方で「異国」「西洋」に接する機会がありました。『阿蘭陀風説書』『唐船風説書』を佐賀藩、福岡藩は内々に読むことができました。また、長崎に詰めていた佐賀藩士は、西洋人や、長崎に留学していた知識人と会うこともできたでしょう。佐賀藩の国際感覚は、こうした背景から醸成されたものと思われます。

 18世紀後半のイギリスから始まった産業革命の波は、すぐにヨーロッパ各国やアメリカ大陸に及びました。産業革命は、紡績業の発展や製鉄技術の向上、蒸気機関の実用化と蒸気車・蒸気船の開発などをもたらしました。すなわち、欧米列強諸国は、鉄製大砲と蒸気船を手にし、国外の市場や植民地の獲得を目指して、アジア侵出を開始したのです。

 また、16世紀後半以来のロシアの東方進出・南下政策も機を一(いつ)にしてこの時期に日本や東アジアに及びました。

 文化5年(1808)の英国軍艦フェートン号の長崎港侵入事件(フェートン号事件)も、その流れの中で起こった事件ですが、長崎奉行松平康英は責任をとって切腹し、大きな政治問題になりました。同年に長崎警備を担当していた佐賀藩は、番頭千葉三郎右衛門・蒲原次右衛門を切腹に処すなどの関係者の処分を行ないましたが、幕府から9代藩主鍋島斉直が100日間に及ぶ逼塞(ひっそく)の処分を受けるなど、大きな衝撃を受けました。長崎警固役の緊張感が薄れ、惰性に陥っていたことが、この失敗を招いたものと思います。

 よく一般に、幕末佐賀藩にとっての「黒船来航」はフェートン号事件で、ペリー来航よりも45年も早く外圧にさらされた、と言われることがあります。しかしながら、実は、その後20年余り、佐賀藩でも近代化に向けての目立った動きはありませんでした。

 9代藩主斉直の時代は、長崎の台場の一部強化などを行ないますが、何より藩財政の破綻が大きな問題となりました。しかしながら、藩主自身の奢侈も改まらず、藩士は世子貞丸(直正)に期待する状況でした。