プロジェクトチーム、発足


 ただし、プロジェクトをスタートさせるまでには、なお10数年の歳月が必要だった。その間、教育に力を入れて人材育成に務め、見どころのある若者は、積極的に江戸や長崎に留学させた。

 また天保8年(1837)には、松江の松平家に妹の光姫を嫁がせた。松江藩内の奥出雲は、日本有数の鉄の産地だった。それまで藩主の姉妹や娘たちは、重臣に嫁ぐことが多かったが、大量の鉄材を融通してもらう布石だったのだろう。

 天保11年(1840)になると、中国で阿片戦争が勃発。長年にわたって、さまざまな技術や文化の手本となってきた中国が、イギリスに敗北したことは衝撃だった。

 その影響で長崎の町年寄、高島秋帆が新流派を築いた西洋砲術が、幕府に採用された。しかし翌年には秋帆は弾圧を受けて失脚。西洋式への抵抗は大きく、武術や技術の改革は慎重に進めなければならなかった。

 藩内では次第に人材育成の成果が現われ、杉谷雍助という若い蘭学者が、ヒュゲニンの書を和訳するに至った。ただ何分にも専門書で、まして日本人が未経験の分野だけに、わからない部分が多かったことだろう。江戸や長崎の蘭学者に意見を聞き合わせるなどして、杉谷は正確を期した。 また直正の側近だった本島藤太夫は砲術を修め、新型青銅砲の鋳造技術も身につけた。

 さらに直正は、城下の鋳物師や刀鍛冶など優れた職人を用いて、嘉永年(1850)、大銃製造方というプロジェクトチームを正式に発足させた。当初のメンバーは8人で、反射炉建設に着手。場所は築地といって、佐賀城下の職人町の裏手だった。

 プロジェクト開始に際しては、ふたたび幕府から10万両を借りた。火事の際の2万両が前例になったのは疑いない。また幕府の老中たちは、海防に大改革が必要なことは心得ていた。だが幕府は組織が大きすぎて、思い切った新事業には動き出せなかった。そのため資金は出すから、長崎の海防は佐賀藩に任せるという姿勢を取った。佐賀藩の技術が最先端であることを、幕府はよく理解していたのだ。