ペリー来航、しかし…


 そして嘉永6年(1853)のペリー来航までには、長崎湾口の台場が整備され、反射炉で鋳造した25ポンドや35ポンドの鉄製大型砲を含め、60門もの大砲が据えつけられた。
 浦賀沖にペリー艦隊が来航すると、幕閣の中には、彼らを長崎に回航させて、佐賀藩の台場と一戦を交えさせよと主張した者もいたという。もちろん、ペリーがそんなことに応じるはずもなく、開国勧告の正式文書を幕府側に渡すと、翌年の再来航を予告して出航していった。

 これに備えるために、すぐさま幕府は江戸湾の台場建設に着手。現在のお台場を含め、品川から深川まで11箇所を埋め立てて、砲台場を造る計画だった。

 ここに据える50門の鉄製大砲を、幕府は佐賀藩に発注。これに応じるために佐賀では、築地反射炉の北側にあたる多布施という地に、新たな反射炉を建設。完成した大砲から随時、船で江戸湾に運び、台場に設置した。

 だがペリー艦隊は予想よりも早く、品川寄りの数カ所ができた段階で再来航。そのために幕府は強い態度に出られず、アメリカの要求を受け入れて日米和親条約を結んだ。 

 この後、幕府は予定の約半分、6カ所を完成させただけで、あとは中止してしまった。もう条約を結んでしまったからには、台場など不要だと考えたのだ。

 台場の建設資金は、江戸の豪商たちに出させていただけに、そんな中途半端なものに大金を出させられたのかと、不満が高まった。ペリーに対する弱腰に、この台場建設中止が重なり、幕府は権威を失墜。佐賀藩としては十二分に責任を果たしたが、支えるべき幕府が力を失っていったのだった。しかし、直正の挑戦は、その後も続いていく。