昨今の教育議論においては、「これからの時代を生きるために必要なスキルをどうやって子供に授けるか」に意識が向かいがちである。しかし教育とは、スマホにアプリをインストールするように、子供にあれこれ詰め込むこととは違う。教育とは、子ども自身が正確に時代を予測し、生きていくために必要なものを自ら判断し、実際にそれを獲得できるように育てる営みである。すなわち「自分で自分を成長させる能力」の涵養こそが重要だ。英語、プログラミング能力、科学的リテラシー、プレゼンテーション能力などは、生きていくために必要になるスキルであってそれらが生きる力になるのではない。

 また「教育」と「人材育成」は違う。しかし昨今の教育議論の中では、それらが混同されて使用されているように感じる。

 結論から述べる。「教育」とは子供ありきの営み。「人材育成」とは目的ありきの営み。出発点が逆である。教育とはどんな木になるのかわからない種を育てるようなもの。結果、桜に育ったり、檜に育ったりする。桜はその花で見る人を感動させるだろうし、檜は強い柱として建物を支えるだろう。一方人材育成は、「ここに丈夫な柱がほしいなあ」「ここに大きなテーブルがほしいなあ」という目的があって、それに合致する「材料」を用意することである。それを人に対して行えば、それは教育ではなく操作である。

 教育がされたのちの「適材適所」は大いに結構。しかし最初から「人材育成」が「教育」に取って代わるようなことがあってはならない。

 もちろん「生きるためのスキル」を明示することも大切だ。「人材育成」が必要になる局面もある。ただし、「生きる力」と「生きるためのスキル」を混同したまま教育議論を進めたり、「教育」と「人材育成」の区別が付かないまま教育改革が語られたりしたら、この国の教育は崩壊する。それこそがこの国にある最大の「教育危機」であると私は思う。

 福澤諭吉は「文明教育論」の中で、次のようなことを述べている。「世界万物についての知識を完全に教えることなどできないが、未知なる状況に接しても狼狽することなく、道理を見極めて対処する能力を発育することならできる。学校はそれこそをすべきところであり、ものを教える場所ではない。だからそもそも『教育』という文字は妥当ではない。『発育』と称するべきである」。

 英語のeducationに「教えて育てる」の意味の「教育」の訳語を当てたのは初代文部大臣・森有礼であると言われている。一日でも早く、日本が近代国家として欧米列強に追いつくため、国が主体となって国民に「教育を与える」という構造をつくり、国家の思い通りの「人材育成」を進める意味においては、これは明治政府のファインプレーであった。

 しかし今、「明治維新以来の教育大改革」を実行するつもりが本当にあるのなら、まず明治以来受け継がれてきた「教育」という概念の再定義が必要であろう。教える側が主体となるのではなく、学ぶ側が主体となる「教育」のあり方への転換が必要だ。

 たとえば「教養(=自分で考える力)を育てる」などいかがだろう。

※週刊誌「世界と日本」(内外ニュース)の1月4日号に寄稿した記事を転載しています。