此のグローバルの時代、日本民族固有の特質を無視してグローバルなど有り得ません。之をベースにしてこそ、日本はグローバルに貢献することが出来るのです。四海に囲まれた日本という島国はある意味隔離されており、日本人はそうした地理的な条件下で独特の文化と能力を持ち得ました。

 日本の歴史を見るに、例えば漢字が百済を経て入ってくると、それを読み熟した上でその中国語に返り点を付け、日本語として読めるようにしてしまいました。更には漢字を変形してひらがなを作り出し、ポルトガル語等の外来語を表記するため、カタカナも発明しました。こうした外国文化を短時間で吸収・発展させる能力に、日本人は素晴らしいものがあります。

 日本は、古来神道という八百万の神を崇拝するアニミズム的な宗教がありました。之は系統立ったものでありませんが、非常にフレキシブルで他の宗教が入って来ても、同化して取り入れてしまいました。日本人は、仏教も儒教もそうして取り入れたのです。また、奈良の大仏の鋳造技術は物凄く高度な技術の結晶ですが、それもアッという間に身に付けました。1543年に鉄砲が種子島に伝わりますが、それもまた瞬く間に当時世界一の鉄火器装備率にまで達してしまったとも言われます。

 このように日本人は排他的にならず、異質なものを在来のものと混在させ、より良きものを作り出す能力に長けています。此の能力は、明治維新後も如何なく発揮されました。西洋にキャッチアップする過程もアッという間で、列強の一国となり日清・日露の戦いに勝ちました。そしてあの大戦の後何も無い状態から、GDP世界第二の経済大国にまでなってしまったというわけです。

 日本人は色々なものを受容・変容し、消化・改善して発展させてきたのです。我々は、考えられないような能力を秘めた民族であります。だからこそ我国の歴史を見直してみるべきで、もう一度「ナショナル・ヒストリー」「ナショナル・トラディション」をちゃんと勉強し、それを踏まえて民族固有の特質を見出し、それを発揮させながら此のグローバルの時代、如何にして世界に羽ばたくかを考えねばなりません。

 同時にまた此の21世紀、日本という国が創って行こうとする世界を支え行く人材の確保・育成という観点からは、常に教育は実学を中心に徹底すべきでありましょう。4年3ヶ月前のブログ『日本教育再考』でも指摘したように、日本の将来の産業構造が一体どういうものかを先読みし、ポスト・インダストリアル・ソサエティ(脱工業化社会)において一体何が大事になるかという観点で教育を捉え直し、そしてそうした大事なものを教育上優先するような体制を敷いて行くべきだと思います。

 例えばデジタルの世界で述べるならば、今後益々「シンカ(深化・進化)」し更に大きな世界になって行くのは間違いありませんから、その世界の真髄を理解し本当にコンピューターを使い熟せるような人間が指導に当たり、実学として実用に供せられるようして行かねばなりません。

 仮に私が文科相であったらば、第一に一芸に秀でるような人材を創出すべく、科目選択制を基本にし総花的教育をやめます。道徳・歴史・哲学(思想)といったものだけは、必修とします。第二に実学を基本とする、例えばIT関係の起業家や実業家をどんどん招聘して授業を行って貰うというような形にします。無能な教師により何の役にも立たない教育が行われるのでは、日本の将来が危ぶまれます。第三に成績優秀者には出来るだけ若い間に留学を少なくとも2年位はさせ、多様な文化の中で生活させます。

 日本の英語教育というのは一言で言えば、リスニングもスピーキングも殆ど出来ない人間が英語教師として指導に当たり、死んだような文法を中心に教え試験ではペーパーテストだけを行うものでした。つまりこれまで日本では、死んだ学問として英語教育がなされてきたのです。そうした馬鹿げた教育と同じ轍を踏んではなりません。

 上記したデジタルの世界のみならず、各分野でオリジナリティ溢れるものがどんどん創造されるような形にすべく、どうすれば良いかを考察せねばなりません。取り分け中学校以降こうした方向に基づいた教育を本格実施して行ったらば、様々な才ある人が新しい事柄に挑戦して行くようになるのではと今思う次第です。
(公式ブログ『北尾吉孝日記』より2015年10月13日分を転載)