オバマ大統領の広島訪問


広島市の平和記念公園での演説で「核兵器なき世界」への
決意を表明するオバマ米大統領=27日午後5時49分(代表撮影)
 日米首脳会談とオバマ大統領の広島訪問も同じ文脈の中で理解できるのではないかと思っています。日米首脳会談後の共同記者会見はいつになく厳しいものでした。沖縄で軍属による殺人事件が起きた直後とは言え、会見で総理はのっけから喧嘩腰で、外交儀礼に反するレベルだったと思います。痛ましい事件に対して厳しい姿勢を取り、その背景に制度的な欠陥があるなら、そこにチャレンジすることは一国のリーダーがとるべき姿勢として適切です。

 ですから、痛ましい事件をある意味「政治利用」して、日米地位協定の改定につなげたいという戦略があったのであれば、納得感はあるのですが、少なくとも共同記者会見でははっきりと言明しませんでした。痛ましい事件に対して、「怒る」ことは人間的には自然なことだけれど、一国のリーダーに求められる一番の役割ではありません。メディアの報道がそのままの形で各国に伝えられる今日にあっては、相手国内での報道のされ方にも気を使う必要があります。「怒る」ことに意味があることもあるけれど、そこには対価が伴うということです。

 オバマ大統領の広島訪問についても、日本の内政上「絶妙なタイミング」で行われることに目が行き過ぎていないか。広島訪問をつつがなく実現するために、直前に起きた沖縄の殺人事件に対して「強行姿勢」を取ったとしたならば、沖縄の状況改善でも、日米同盟の信頼醸成のためでもなく、内政上の利益を優先したと言われても仕方がないだろうと思います。

 もちろん訪問自体は評価すべき点もあります。「謝罪を求めない」ことを明確にしつつ、大統領の訪問を「暗黙の謝罪」と受け取るという日本的な解釈が、世界に理解されるかどうかは別として、一種の日本的な品格の示し方ではあるでしょう。昨年の米国上下両院での演説以来の寛大な和解路線は、中韓で歴史問題に火種を抱える日本にとって、スマートな選択肢です。

 そもそも、大統領の広島訪問は、米外交のタブーに挑んできたオバマ政権のレガシー=ビルディングの一環です。オバマ大統領は、キューバに行き、ミャンマーに行き、イランと核合意に至り、ベトナムと和解を演出し、そして、広島を訪問するわけですから。何より、演出の人である同大統領がプラハで行った核なき世界の理想を語る作業の総仕上げのピースです。

 外交というのは双方に利益がない限り機能しませんので、そこを見極めて実現までもっていったことそのものを「成果」とすることもわからなくはない。しかも、世論調査や事情通の話を総合すると、それは安倍政権にとって内政上有利になるという。私がなんとなく違和感を覚えるのは、内政上有利になる理由が何なのか、メディアがはっきり切り込めていないことです。情緒的に語るだけでは、論評したことにはなりません。

 オバマ大統領の広島訪問について、どれだけ現実性があるかとは別の次元で、核廃絶への理想を体現する行動として評価する向きはあるでしょう。安全保障の根幹を米国の核の傘に頼っていることとの矛盾はいったんおいておき、欺瞞があることは承知の上で、理想を語ることには一定の意味があるからです。

 日米の和解の象徴としてということもあるでしょう。東アジアの安全保障環境が悪化する中で、日米同盟を強化する方向に舵を切ってきたのが過去数年の日本です。それは、米国の力と意思が揺らいでいるように感じられる中での変化でした。同盟強化の路線には、戦後保守が抱え込んできた米国から見捨てられる恐怖と、米国へのわだかまりという相矛盾する感情をコントロールする必要がありました。そのためには、原爆についての「暗黙の謝罪」という象徴性がどうしても必要だったのでしょう。
 

まとめ


 サミットや日米関係の成果を「外圧」として利用することの最大の問題は、民主主義の健全性を歪めるからです。責任ある経済政策を訴えることも、同盟の重要性を訴えることも政権のど真ん中の責務です。政権の支持基盤の中には多様な意見があるだろうけれど、その説得から逃げるようであれば、何のための本格政権かということになってしまうでしょう。
(ブログ「山猫日記」より2016年5月26日分を転載)