デマ援用で日本非難宣伝を開始


 当時、日本はすでに国際連盟を脱退しており、〝反日的なムード〟に支配されていたと思われる。それにもかかわらず、国際連盟は、「行動要求」について、一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のようには採択をしなかったのである。

 しかも、国際連盟議事録にある「二万人虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、アメリカ人のベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にした米ニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。ベイツ教授もフィッチ牧師も、単なる公平な「第三者」ではなかったのである。

 フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教授は、中華民国政府の顧問だった。

 蒋介石軍の将兵は、一九三八年一月になると、南京城内安全区から脱出して蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている。その時点で、「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、顧維鈞(いきん)代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。だが、そうした事実を確認できなかったために、「デマ」に基づく新聞記事を援用せざるを得なかったのだ。

 この「二万人」という数字は、東京裁判での「二十万人」や中華人民共和国が主張している公式見解の「三十万人」とはケタが違うことが分かるだろう。民国時代の一番、事実を正確に把握していたであろう時に出した主張が「二万人の虐殺」なのである。繰り返すが、それすら、国際連盟で「否定」された。この議事録は、中国側の主張を覆す上で、「白眉」の資料と言っていい。

 南京陥落直後から、中国国民党は、約三百回もの記者会見を行ったが、その中で一度も、「南京虐殺があった」とは言っていない。

 この国際連盟議事録はまさに、そのことを裏付けることができる決定的な資料である。国際連盟の会議の場で、顧代表が〝南京虐殺〟を訴えて、無視されたことを、中華民国は再度、記者会見で訴えられなかったのである。

 ここで当時、この問題を討議した国際連盟の動きを詳しく振り返ってみたい。

 中国の顧代表が演説をした国際連盟理事会の第六回会合は、一九三八年二月二日水曜日正午から、本部のあるスイスのジュネーブで開催されている。だが、その理事会の前の一月三十一日に、一つの重要な会議が開かれていた。決議案の草案を検討した「四国(英、仏、蘇、支)会議」がそれである。

 我々が発見した、昭和十三年二月十八日付外務省機密文書「第百回国際連盟理事会に於ける日支問題討議の経緯」の「四国会談に於ける決議案作成事情」によると、「…顧(代表)が第一に提出したる対日制裁の点は英仏の拒絶に依り(略)」とある。つまり、中国側が、決議案に対日制裁を盛り込むことを求めたのに対し、英仏がこれを拒否したのである。

 当時、日本は、国際連盟を脱退していたが、第百会期国際連盟理事会終了後、約二週間で理事会の内容は翻訳され、当時の広田弘毅外相に報告されていた。だが、この文書は機密扱いとされ、いまだに公開されていない。