「三光政策」と城野宏の〝詐話〟


 「中国の旅」が報じた三光政策(作戦)は歴史教科書に早速反映された。〈中国共産党の指導する軍民の抵抗に悩まされた日本軍は、一九四〇~一九四三年にかけて、華北の抗日根拠地に対する攻撃のなかで、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」いわゆる「三光作戦」をおこなった〉(実教出版「高校日本史」)に見られるように、内容は本多解釈と瓜二つである。

「三光」は中国語なのだから、日本軍が「三光作戦」という名称を使うわけがないくらい誰にでもわかる。それに、同作戦に参加したはずの華北駐留の将兵に確かめたが、三光作戦という作戦名を誰一人として知らなかった。その場にいた将兵の知らない作戦が後の世代に教えられるのは異常である。

 念のために記しておこう。一九三一(昭和六)年十一月、江西省と福建省の境、瑞金に毛沢東を主席とする中華ソビエト政府が成立、敵対する蒋介石軍はソビエト地区を数次にわたって攻撃する。形勢不利となった共産軍は瑞金を脱出、「長征」がはじまる。この攻撃を指して共産党は「三光政策」と非難した。

 ほかにも例がある。アメリカに亡命した中国社会科学院政治学研究所の厳家其と夫人の共著『中国文化大革命』に、林彪(りんぴよう)一味は「意見を異にする幹部に対して、『三光政策』(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)に近い中傷迫害を実行した」とする記述がある。要するに、三光政策とは相手を非難するための用語であって、それを真に受ける日本の学者らがおかしいのである。

 城野(じようの)宏は終戦後も山西省に残留した「太原組」の一人で、帰国がもっとも遅かったために「最後の戦犯」といわれた。城野は証言する。

戦犯管理所で日本から面会に訪れた妻子と面会する城野宏中尉
戦犯管理所で日本から
面会に訪れた妻子と面
会する城野宏中尉
 昭和十五年、北京で開かれた北支那方面軍の兵団長会議で決定された晋西北作戦の記録に、敵地区に侵入したさい食料は輸送か焼却、家屋も破壊または焼却、また人を残すななどと記してあったとし、「男は見つけしだい殺す。命令には女は殺せとは書いてないが、これはわざわざ書くまでもないというだけのこと」で、慰みものに使ったあとは殺してしまうのが普通だった―というのである。 

 そして具体的な残虐行為の証言に移る。一例をあげると、独立混成第三旅団のある部隊が山西省楼煩鎮(ろうはんちん)で酷いことをしたと話す。

 ―ある民家に踏みこむと妊娠中の若妻がいた。裸にして椅子に縛りつける。好奇心にかられた一人が陰部に唐辛子を突っこむ。女は痛さに泣き叫ぶ。ある下士官が腹の中はどうなっているかとばかり「銃剣を陰部にさしこんで、下から徐々に裂いていったんですな」とその場面を説明。そして、腹から胎児を取り出すとしばらく観察し「〝あっ汚い〟とばかりに庭の石にたたきつけて殺してしまったというんです」―というのである。目撃したものか伝聞なのかはっきりしない。

 この「証言」は月刊誌「潮」に「日本人と三光作戦」として掲載され、加筆の上『日本人は中国でなにをしたか』(潮出版社、昭和四十七)と題し出版された。単行本『中国の旅』と同時期で、内容は城野証言で占められている。

 この話、多くの人が信じたことだろう。城野の肩書きが高級軍人を思わせる「山西野戦軍副司令官」であり、東京帝大法学部(政治学科)の卒業者だからだ。だが、「副司令官」は正規の日本軍の階級とは無縁である。終戦後、日本軍に山西残留を要請した閻錫山が見返りに三階級特進などを提示した結果、あらたにできた職位、階級だからである。

 城野は昭和十三年十二月、東京目黒の輜重(しちょう)(輸送)兵第一連隊入隊、幹部候補生となって十五年十一月少尉に任官、十六年一月、山西省運上の輜重兵三十七連隊に転任する。最終階級は陸軍中尉であった。この間、運上特務機関(政治班長)、第一軍参謀部(政治課)ほかに勤務している。

 となれば、階級と時期から彼が証言する昭和十五年の北京における兵団長会議の資料を見る機会はありえない。独立混成第三旅団の戦友会(福島)に出席するなどして、楼煩鎮での残虐行為を当地に駐留経験のある下士官などに確かめたところ、「聞いたことはない」「ありえない話だ」など反発の声があがった。
戦犯法廷に立つ城野中尉。中国当局が2014年7月明らかにした自筆供述書によると、昭和18年から4度にわたり1500人の機動兵力を派遣して食料15万㌧、鉄20万㌧を日本軍のものとした。21~24年には閻錫山の反共作戦に加わり、人民解放軍に2千数百人の損害を与えるなどしたとあるだけで、「三光作戦」など一言も触れていない
戦犯法廷に立つ城野中尉。中国当局が2014年7月明らかにした自筆供述書によると、昭和18年から4度にわたり1500人の機動兵力を派遣して食料15万㌧、鉄20万㌧を日本軍のものとした。21~24年には閻錫山の反共作戦に加わり、人民解放軍に2千数百人の損害を与えるなどしたとあるだけで、「三光作戦」など一言も触れていない
 公表された自筆供述書は百二十枚の長文で読むのも一苦労だが、前半が戦中の、後半が山西省残留後の記録である。問題の前半を見ると、三光作戦はもとより「三光」という言葉がどこにもない。自ら最前線で戦った記録もなければ、強制連行や残虐行為の記述もないのである。すると城野の「罪行」とは何なのだろう。それは保安隊の組織化に力を入れたことであり、地下組織の活動を鎮圧するために住民戸籍簿をつくったことなどである。要するに、最前線の戦闘とは関係ないのである。城野証言には首をひねらざるをえない。

 最後のページに「自分の敵は裕仁等の戦争販売人であり」、吉田茂売国政府を打倒、美帝を追い出し、中国やソ連の道を歩むべしとある。