三光作戦と鈴木中将の「ためらい」


 鈴木中将は二編の手記のほか、母校の仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」のインタビューに昭和五十四年六月応じた。「どんな裁判だったのですか」の質問に、「軍事裁判で一審だけですからな。(略)そして、ありもしないことを住民がなんだかんだと言いますからね〝鈴木部隊が、ここにこういう風に入って来た〟と住民がいうので〝そんな所に私の兵隊を配置したことはありませんよ〟といったって〝住民のいうことに間違いはない〟と言うんだから(略)罪を犯した本人が居らなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って〝ああ、そうですか〟って」と発言している。 

鈴木啓久中将が帰国後に防衛庁戦史室(当時)の依頼で書いた回顧録「中北支における剿共戦の実態と教訓」
鈴木啓久中将が帰国
後に防衛庁戦史室(当
時)の依頼で書いた回
顧録「中北支における
剿共戦の実態と教訓」
 三個連隊を率いて河北省東部と中部の警備に当たった第二十七歩兵団長時代の二年三カ月間が、鈴木中将のもっとも苦労した時代であった。蒋介石軍の大部分は重慶にあったが、傍系軍は多く徹底抗日を叫ぶ。日本軍が彼らを駆逐するとかならずそこには共産軍が進出したという。

 密偵などから敵集結の報を受けて出動してもほとんどが空振りに終わる。中将の表現である「空撃」が手記に頻繁に顔を出す。戦闘の実態はゲリラ戦であって、相手が知悉(ちしつ)した土地での闘いに翻弄される日本軍の様が詳細に記述されている。

 南京、河南省を含む在中五年間で、唯一の成功例が魯家峪(ろかよく)の闘いであったと書いている。その戦果は「約三百殲滅(せんめつ)」。「魯家峪で殲滅したような成果を挙げたのは全く例外」で、ほかはほとんど空撃であったと説明している。供述書を見ると「魯家峪部落付近の山地に避難せる中国人民の農民二三五名を、中にも妊婦の腹を割り等の野蛮なる方法を用いて惨殺し、(略)尚且つ婦女の強姦百名にも達したのであります」とある。
帰国した鈴木中将の歓迎会の様子
帰国した鈴木中将の歓迎会の様子
 この作戦に参加した数人から話を聞きとっている。部落付近は荒涼とした地帯で、日本軍がしばしば伏撃に遭い、ときには大打撃をこうむる。追尾してこの付近にくると足跡を見失う不思議な所とされていた。ここに秘匿陣地のあることがわかり討伐が行われる。

 洞窟内に逃げこんで頑強に抵抗する八路軍との戦いであった。後にわかったことだが、洞窟内には機関銃、地雷はもちろん山砲、迫撃砲まで備えていたという。鈴木中将は「逮捕者中、八路軍兵士は捕虜として後送せしめ、他は釈放することを命じて成功を賞して戦斗司令所に帰った」と手記に書いている。

 NHKのETV特集「日本人 中国抑留の日々」(平成十一年十二月七日)は、未公開フィルムとして昭和三十一年六月に開かれた軍事法廷の模様を報じた。大物戦犯がぞくぞく登場、自らの罪状を「告白」し謝罪する。

「鈴木啓久中将はいわゆる三光作戦を中心になって指揮した将軍です」と断定するナレーションにつづいて中将の告白場面に移る。一部を再現すると、「申しあげますれば、母の所にあった赤ん坊をもぎとって、地べたに叩きつける(と)、妊婦の腹を裂く(と)、生き埋づめを果たす、その上に芝草をかけて焼き殺す。あるいは、銃剣、機関銃あらゆる武器を以って、一時にして、(略)千二百八十余名という大勢の平和人民を三光政策の犠牲としたのであります」

 「申しあげますれば」と言ったまま一瞬、中将は間を置く。躊躇しているように見える。さらにナレーションは、「三光作戦が徹底して行われたのは、かつての満州と中国の境界線付近でした」として「無人地帯」をあげる。無人地帯を「住民抹殺作戦」というのである。

 結論だけ記すと、日本側の呼称「無住地帯」は部落に敵が紛れこみ、武器など物資の保管場所になるのを防ぐために取った住民の強制移住策である。でなければ、中将が記すように二十日間の猶予を与え、運べるかぎりのものを持って立ち退くよう命じるわけがない。以降いかなる理由があっても帰住は認めないとし、家屋は焼却した。だが、追い払っても追い払っても舞いもどる住民が少なくなかったという。鈴木中将は「之等の処置を中国は『三光政策』と呼んだ」と記しているだけである。