「中国戦犯」と「洗脳」について


 六十万人といわれるソ連抑留者のうち九百六十九人が選別されて中国に送られ、撫順(ぶじゆん)戦犯管理所という名の監獄に収容された。昭和二十五年七月のことであった。引き渡しはスターリンと毛沢東の合意という見方がある。

 一方、中国山西省では日本降伏後も国民党系の閻(えん)錫山(しやくざん)軍と共産八路(はちろ)軍とが戦闘状態にあった。閻は「日本人居留民を帰国させる」などの条件で、日本軍(第一軍)に残留を要請、受け入れた日本軍は閻とともに八路軍と戦うことになった。結果は八路軍の勝利に終わり日本軍は投降、第一軍関係者ら百四十人が太原(たいげん)戦犯管理所に収容された。撫順組と太原組を合わせた千百九人が中国戦犯といわれる人たちである。

 軍関係では師団長四人(いずれも中将)、内訳は藤田茂師団長以下二百六十人という最多の第五十九師団、佐々眞之助師団長以下二百人の三十九師団、ほかに鈴木啓久(ひらく)第百十七師団長、岸川健一第六十三師団長(抑留中死亡)であった。文官の方は満州国高官・古海忠之らが含まれた。

 六年後の中国共産党の軍事法廷で、軍上層部を中心に四十五人が有罪(有期の禁固刑)となり、残る約千人は起訴免除となって昭和三十一年に帰国した。したがって、ソ連の分と合わせれば十年以上も捕虜の身となった人が大部分だったのである。

 この六年の間に彼らは洗脳されたのではないかと帰国当時から言われた。帰国時の発言と中国に書き残した手記を集めた『三光』(カッパブッ
クス、昭和三十二)の出版が影響したものと思われる。描かれた行為が異様なほど残忍だったからである。

 撫順戦犯管理所に日本語通訳として勤務、日本人の指導・監督にあたった金源所長は、総括とも呼べる日本兵の残虐ぶりを次のように記している。「あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を撲殺した後、その肝と脳味噌を食べたのである。このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は、枚挙にいとまがない」と。

 彼らは帰国後に「中帰連」 (中国帰還者連絡会)を組織し、初代会長に藤田茂第五十九師団長が就任した。藤田は「自筆供述書」の最後に「私は私に斯かる罪行を犯さしめたる裕(ひろ)仁(ひと)に対し、心よりの憎恨と斗争を宣言するものであります」と書いている。呼び捨てにされた「裕仁」は昭和天皇のことである。

 心理学が専門の小田晋・元帝塚山学院大学教授は、洗脳について以下のように説明している。

 〈広い意味での「洗脳」は、他人の意思を屈従変更させるための精神操作の手法をいいます。つまり、宗教的、政治的、商業的(販売の手段としてのコマーシャル)、犯罪的な手法を総称して「洗脳」といいます。(略)狭い意味での「洗脳」は、旧共産圏の秘密警察や特務機関が捕虜または政治犯を告白させたり転向させたりするためにもちいた手段を指します。〉(「歴史と教育」平成十五年三月号)

 「中国側は洗脳なんて言葉の存在も知らないと否定する」(小田氏)が、「洗脳」は中国の造語である。「ブレイン・ウォッシング」は洗脳の英訳であり、洗脳の技術を中国が保有していたことに間違いなかろう。米ジャーナリストのエドワード・ハンター著『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』(法政大学出版局、昭和二十八)は、このことを含め、説得力のある説明が実例をもって示されている。