収容所の思想改造過程とは…


 撫順戦犯管理所に収容された日本人は三カ月後の昭和二十五年十月、朝鮮戦争の激化に伴いハルビンと呼蘭の両収容所に移動、前者は佐官級以上、後者は尉官級以下が入所した。そして六カ月後、少尉以下六百六十九人が撫順に復帰し、残りは二十八年十月までハルビンにとどまった。

〝日本人を使った中国の宣伝書〟であった『三光』。中帰連自らが新編や完全版も出している
〝日本人を使った中国の
宣伝書〟であった『三光』。
中帰連自らが新編や完全
版も出している
 呼蘭収容所で思想改造のための基礎づくりが進行していた。思想改造は「坦(たん)白(ぱい)(自白)」を促す前の過程である。尉官以下七百余人の思想改造教育にあたった呉浩然によると、まず学習を望んだ八十余人で六つの学習組を作り、国友俊太郎、大河原孝一、小山一郎ら六人を学習組長に選び先行教育を行ったという。六人はソ連時代、捕虜の上に君臨したアクチーブ(積極活動分子)で、撫順でも思想改造の推進役となった。

 一方、ハルビンに残った組からも尉官十四人が選ばれ、先行教育が行われた。彼らの大部分もまたアクチーブであり、帰国後は「中帰連」で中心的役割を担ったのである。

 まず学習。教材はレーニンの『帝国主義論』や日本共産党編纂の資料などが選ばれた。狙いは階級闘争理論の習得で「その基本精神をのみこんでから、実際と結び付けて討論」するのだという。討論は週一回、当初の議題は朝鮮戦争関連が多かったようだ。学習者たちは「資本主義帝国主義の反動的本質をある程度認識し始め」ると、なかの一人は討論中「日本の社会は、資本主義から帝国主義社会に到達したので、国外にむけての拡張となり、中国に対する侵略戦争を引き起こした。この歴史発展の過程は、レーニンの本と同じだ」と述べたという。

 もどった撫順戦犯管理所は収容棟が七棟、尉官以下を収容する棟は十五程度の小部屋からなり、十七人が一組になって収容された。呼蘭で先行学習した八十人を意識的に各部屋に配置したと呉浩然は書く。以下、学習、坦白、認罪と進むが、重要と思われる事項に触れておきたい。

 ①強調された「二つの態度と二つの道」

 「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」と絶えず強調された。同時に、罪の大小で処分が決まるのではなく、「罪行は重くとも完全に共産主義思想になった者は許す。罪行は軽微でも、思想を改造できない者は重く処分する」と強調されつづけた。

 恐ろしい論法と思う。身に覚えのないことでも、取り調べる側が「事実」だという心証を持つなり、あるいは何らかの意図を持てば「自白」を引き出すことが可能だからである。死刑になるかもしれない恐怖、故国へ帰りたいという熱望、これらを背景に「二つの態度と二つの道」が使い分けられれば、どのような結果を生むかおおよその見当はつく。

 ②「自白」中心の取り調べ

 取り調べにあたって、検察側が具体的な犯罪事実を提示することはなく、ほとんどが「自白」といってよい。有罪者の一人、横山光彦・元ハルビン高等法院次長の記述からもうかがえる(『望郷』 サイマル出版会)。

〈「お調べがついているでしょうから、それをお示しください。そうすれば私も思い出せることもあるでしょう」というのだが検察員は聞き入れない。「中国は、お前が自らの記憶に基づいて述べることを要求する。誠実な態度であれば思い出せるはずである。今日は監房へ帰れ」となんべん言われたことか〉

 ③下を落としてから上位者へ

 取り調べは階級の低い方を先に、上位者は後からが原則であった。下位者の「罪行」を得ることによって、上位者の「罪行」を追及しやすくなるからである。