川端が、湯ケ野の撮影現場をわざわざ訪うて、吉永小百合の側から離れなかつたのは有名なエピソードですが、これは俗に言ふ川端の少女趣味といつて侮る訳にはゆかない逸話です。川端といふ人は、女性の美と醜悪とに対して、普通では考へられない異常に鋭敏な眼と、異様な妄執を持つてゐました。

 その川端は、例へば岸恵子、岩下志麻らに対してならば、たとひ若い時であつても、既に大人の女を見てゐたと考へられますが、では、十八歳の吉永小百合に、川端は、何を見て、離れ難かつたのか。十八歳ですから無論少女とは言へない。一方、大人にもなりきつてゐない。

 子供である事の手放しの無邪気さが急速に失はれ、しかし女である事への怖れと、女になり染めの輝きによつて、手の届かないやうな神聖さが女性に宿る一瞬─その瞬間の吉永小百合を、川端の残酷なまでに女を見通す目が見落とす筈はありません。

 男といふ生き物には、彼が子供である時と、大人になつた彼しか存在しない。

 が、少女の中には、大人の女になつたら失はれてしまふやうな強さと、そして叡智がある。普通ならば、十八歳といふ年齢は、女から、さういふ処女性を奪ふ年です。ところが十八歳の吉永さんの中には、寧ろ、時は今ぞとばかり、大人と永遠の処女性の同居といふ奇跡が輝いてゐた。川端はそれに喜びを覚えつつ、おそらく彼の破れた初恋を思ひ出し、衝撃を受けたのではなかつたでせうか。

 この初恋の女性─千代といふ娘は浅草の喫茶店の女給でしたが、その印象は「踊子」の中にも色濃く投影してゐます。『伊豆の踊子』は、まだ全くの子供である踊子に、主人公の学生が女を強く感じる事で発生する抒情劇ですが、川端は、吉永さんの扮する踊子に、逆に大人へと強く揺れ動く女を感じ、それにも関はらず、女になつてしまはぬ少女性の深さにあはれを感じた、その意味で、川端は吉永さんの演戯から、『伊豆の踊子』の新たな可能性を教へられたのではなかつたかと思はれます。

 実際、『伊豆の踊子』での吉永さんは、「大人」と「子供」との往復のテンポ感が非常に早い。高橋英樹さんの演じる「学生」が、逆に、原作にある「孤児だといふ負ひ目から自分を解放する」学生の葛藤の全く感じられない、健康な大人の男になりきつてしまつてゐる分だけ、その男性としての安定した高橋に自然に寄り添ひながら、吉永の踊子は、急速に恋に目覚めてゆきます。

 特に、三十歳前後までの貴女の演技は、僅かなセリフだけしか与へられてゐない時でも、表情の変化だけで、心の急速な変化を表現する瞬発力に溢れてゐました。

 日本の女優史の中では、さういふ心理的な運動神経のよさを自然に演戯できる人は、吉永さん以前には余りゐなかつたのではないでせうか。