もう一つ、正式な婚姻も印象の上で無効化されてゐる。


2014年9月、主演映画「ふしぎな岬の物語」のイベントを行った吉永小百合
 この映画では、特に筋立て上必要がないのに、盛大な結婚式の場面がある。ところが、そこで永遠の愛を誓つた二人の結婚は、たちどころに破綻してしまひます。一方、この映画は、浩司とみどりとが未婚のまま子種を宿した報告を悦子が祝福する場面で、虹が海に掛かつて終ります。

 盛大に祝はれた結婚は破綻し、未婚の男女が宿した赤ちやんに祝福があつて、映画が閉ぢられる。

 要するに、この美しい映画は、日本独自の死生観や優しく育まれた共同体に根差しながら、一方で、構造の内に、成熟した男性を排除し、結婚といふ制度を無効とするやうな志向性を強く持つ事で、この映画が描いてゐる美しい日本を破壊するイデオロギーを内包してしまつてゐる。

 夢幻劇に過ぎないのだから、難しい事を言はずに楽しめばいい、一応さうは言へる。

 が、夢幻劇の外界をなかつた事にしてしまふのと、夢幻劇を荒々しいリアリズムの世界から守り美しく育てることは違ひます。ここで詳しく論じることはできませんが、多くの偉大な文學、戯曲における夢幻劇は、それを脅かす現実との葛藤を内に含んで自らの純潔を守つてゐるのです。『源氏物語』や能にせよ、シェイクスピアの『嵐』、ヴァグナーの『トリスタン』……全て夢幻性を脅かす外界との緊張関係こそが、これらを美しく掛け替へないものにしてゐる。

 ところが、戦後の日本は、夢幻劇を成立させる為に不可欠な、荒々しいリアリズムの世界を直視する事を忘れて、夢を編んできた。

 そして、いはばさういふ力との葛藤なしに成立する夢幻劇に狎れ過ぎてきた、それが余りにも続いた結果、我々は、現実と理想との混同に疚しさや痛みを感じなくなつてしまつてゐる。

 この映画はその谷間に咲いた百合なのです。

 が、さうした問題に於いて、吉永さんを更に危ふひ所に追ひ込んでしまつたのが、貴女の場合、原爆詩の朗読だつたのだらうと思はれます。節を改めて論じてみませう。