原爆詩朗読という「祈り」の純粋さ故に


 吉永さんは昭和四十一年に、『愛と死の記録』といふ被爆者を主人公にした映画に出演して以来、原爆或いは被爆者、戦争に対する関心を深めてゆかれた。そしてその思ひが今日に至るまでの原爆詩の朗読といふ活動に繋がります。これは、吉永さんの中で非常に大切な、重い意味を持つた活動に違ひありません。

2005年3月、東京大空襲から60年の「平和への集い2005」で、
原爆詩の朗読をする吉永小百合
 実際、原爆といふ主題に、貴女のやうな真面目でイノセントな女性が心の強い痛みを抱いたといふことを、私は素直に理解できます。そして、女優として、一人の人間として、それを形にし、伝へたいといふ思ひも理解できる。

 私も又、核兵器の発明と使用が、人類史上最大の罪悪であつて、原爆で焼かれた民族である我々日本人こそが、その災厄の真実を世界中に知らしめ続けねばならないと考へます。

 人類は戦争を繰り返しながら、文明を高めてきました。あらゆる神話や宗教が描いてゐるやうに、破壊と創造は一つのパッケージになつてをり、文明の発展のみで戦争のない世界はあり得ません。人間の中の破壊衝動、憎悪や殺意と、建設への熱意、愛や創造性とを簡単に切り分け、前者のみをこの世から消し去つてしまふ事は不可能です。

 が、核兵器の発明と使用は、さうした破壊と創造といふ構造に根本から見直しを迫るものだつたと言ふ他はありません。少なくとも大東亜戦争末期、既に戦争終結に向けた国際工作を何カ月も続けてゐた戦意なき日本相手に原爆を落とすといふアメリカの禁じ手、そして報復を恐れたアメリカによる日本の軍事力の封印と洗脳が成功した為に、核兵器使用による報復が生じなかつたものの、今後は、万一地上のどこかで核兵器使用があれば、報復の応酬、また、非国家集団による核兵器の濫用への道が開かれ、破壊の後に破壊しか続かぬ可能性が充分にある。

 だからこそ、二つの事が必要です。

 もう発明されてしまつたものはどうしようもないと肚を据ゑるのが第一です。発明された悪魔を乗り越えるのはより優れた技術しかない。原爆反対、原発反対と唱へた所で、世界の技術競争は止まらない。より良心的な陣営が開発競争の先頭に立ち、やがてこれを無害化する所まで技術を追求する以外に、この悪魔を鎮める道はない。安易な反対運動は、かへつて技術による無害化の可能性を閉ざします。

 もう一つは、核兵器を使はせない国際環境を強化する事です。その意味で、核兵器使用がどれ程悲惨かの実態を世界人類に共有させるのは、日本の重要な平和活動に違ひありません。

 そしてその為に、端的に被爆の悲惨さの「記憶」と「記録」を伝へる事と同時に、貴女がなさつてゐるやうに、「表現」された原爆を伝へるといふ手段もあり得る事になる。

 勿論、原爆の実態を伝へる事と、原爆を詩にすること、またそれを朗読することは意味が全く違ふ。

 「記録」を直視する事は世界人類の責務です。

 が、原爆や被爆を詩といふ表現にすることは可能なのでせうか。