開沼 なるほど。私の仕事で言えばちょうど2年ほど前の2013年3月に刊行した『漂白される社会』(ダイヤモンド社)を貫く背景仮説は同様の問題意識に基づきます。漂白とは色のことです。「色」には、黄色とか桃色とかいう直接的な「色」の意味以外に、二つの意味があります。一つは「偏り」のこと。例えば、「あの人と関わると色がつく」とかいう時がありますよね。もう一つは色町や色恋沙汰という時の、「猥雑さ」のことです。偏りや猥雑さとは、誰かを傷つけかねないような、暴力性や残酷さと隣り合っている。それらが社会から一掃されていく社会現象が現代には確かに存在する。東京なら歌舞伎町浄化作戦とか、新宿西口からホームレスの方を一掃して「きれいな道ができました」とか。これが「漂白される社会」と私が呼んだ現象です。
 言葉や文化の面では、Twitter文化でも今の話に共感する部分が非常にあります。例えば、政治的な課題に対するTwitter上の議論を負っていると、あたかも皆が「どっちが正義の側に立てるかゲーム」を繰り返しているように見える。「我こそは正しい」と「笑点」のように言い合う儀礼が始まっています。表面的には右と左に分かれているように見えるけれども、構造的にはどちらも「正義の側に立ち」たい、そして「偏り」や「猥雑さ」を駆逐していくプロセスに邁進している、という点で同じなのかもしれません。

 話を戻します。3・11以降の日本において、原発に関するメディア上の表象、文化、表現が意外と早く引く傾向があった。それはなぜか。

 私たちは表現について、無意識の中で、人を予期せぬ結果で傷つけてしまうことを過剰に恐れて、先回りして自粛する傾向が強まっているからだ。これが山本さんの仮説であり、ぼくも同意します。

 同時に、もう一つ付け加える必要があるかもしれません。チェルノブイリと比較した時に、チェルノブイリ以降ほど核・原子力に関する議論が持続しなかったのは、おそらく3・11の場合は私たちが当事者になってしまったからです。

 チェルノブイリは、「遠くで起きている他人事」でした。当時はチェルノブイリがあるウクライナがソ連の一部であり鉄のカーテンの向こう側は覗きにくかった。さらに、もし、チェルノブイリが英語圏ならば、もう少し情報が入ってきて、心理的距離感も近づいたのかもしれないが、そうではないので通訳できる体制も極めて限られていたなど、根本的に情報不足と誤解があった。

 では、そこで表現があまり出てこなかったのかというとむしろ逆です。情報不足と誤解ばかりが流通する中で現実が分からない分、イメージが様々な形で発達・活性化していった。社会心理学などで発達する「流言・うわさ研究」では、「オルポートとポストマンの法則」というのがあって、R(流言の量)=i(重要性)×a(あいまいさ)と言われます。まさに、あいまいだけど重要な話だったんで、イメージはものすごく活性化していった。

 要は、皆が好き勝手に言ってきて、「核・原子力を楽しむ」という点では、大いに盛り上がっちゃった歴史があったわけです。私は昨年度、チェルノブイリにも2度現地調査に行きましたし、福島の問題も常に現地調査をしている。その観点から、山本さんのご著書を読んで、改めてその距離感の差を強く感じました。

 チェルノブイリは文化的に「楽しめる」対象であった一方、福島はそうではなかった。誰でも行けるし、日本語も通じる。文化的に「楽しめる」かというとネタにはできない。「お前は行ったのか」「ちゃんとデータはあるのか」と健全な事実検証も行われる。その中で、文化的な盛り上がりがなかった側面もあるのではないかと思います。

 ただ、核を「楽しむ」という話と「当事者性」という話の関係性を議論するのならば、当然、広島・長崎のことも踏まえて議論しなければなりません。つまり、いまの私の話は「チェルノブイリ原発事故後の核・原子力についての文化的表現が盛り上がったのは当事者性が薄いから」で「3・11後の核・原子力についての文化的表現が盛り上がらなかったのは当事者性が濃いから」という図式をだしました。

 だとすると、山本さんの『核と日本人』にも書いてありますが、広島・長崎への原爆投下については日本は当事者だったのだから、もしかしたら「文化的表現が盛り上がらない」というシナリオになっても良さそうですが、歴史をみれば、そうはならなかったわけですね。これは、なぜ盛り上がったのか。いかがですか。