だが、マスコミや財界人、有識者の間では量にこだわる考え方が多数を占めていた。こうした発言力の大きな勢力が学力低下を憂いて量の削減を論難すると、「ゆとり教育」批判の構図は決定的となった。根拠のない印象的な学力低下論が幅を利かせ、マスコミの作った「ゆとり教育」という言葉は専らネガティヴな文脈で使われることになる。

 それにしても痛恨の極みだったのは、02年指導要領における質の改革の意味を学校現場に徹底する施策が不十分だったことである。それまでの学習指導要領改訂時には全国各地できめ細かく行われていた趣旨説明会が、ほとんど行われていなかった。担当の初等中等教育局によれば、ひとつは90年代後半から地方分権が常識になっていたため国が手取り足取り指導するのでなく地方の自主性を尊重したこと、もうひとつは財政緊縮で説明会開催の予算が確保できなかったとの理由らしい。

 山形県教育委員会などいくつかの教育委員会は独自に趣旨徹底を行ったものの、多くの都道府県では十分な対応ができず、当の学校現場が目に見える量の削減は解っても目に見えない質の変化を理解しきれていなかったために、少なからず混乱が生じたのは事実である。そしてそれがまた、「ゆとり教育」批判に拍車をかけることになる。

 「ゆとり教育」批判が高じて国民の間にも不安が広がっていくと、政治や文教行政もそれを無視はできなくなってくる。02年指導要領の実施直前の02年1月に遠山敦子大臣が発したアピール「学びのすすめ」は、習熟度別学習や「総合的な学習の時間」について国民の理解を求めるとともに、「学習指導要領は最低基準であり、理解の進んでいる子どもは、発展的学習で力をより伸ばす」と画一一辺倒から脱する質の変化を説明した。

 しかしこれも「確かな学力の向上」という文言を入れたために、文科省も学力低下を認め学力向上を目指すようになったとの解釈を許してしまう。結局、肝心の質の問題よりも量の問題に焦点が当てられたまま、02年指導要領はスタートしてしまうことになった。


「円周率が3」は誤報

 日本の教師たちはすばらしいと思う。そんな状況の下でも「総合的な学習の時間」は徐々に定着していく。それまで現場でタブー視されていた習熟度別学習も、さまざまな工夫を凝らして実施範囲が広がっていった。教育が息の長い事業である以上、その成果は一朝一夕に表れるわけではないが、たとえば2012年のOECD学習到達度調査(PISA)で受験した高校1年生、つまり03年に小学校に入学した世代がPISAの求める応用力、コミュニケーション能力などの21世紀型学力において世界トップクラスの成績を収めるなどの結果を生んでいる。

 にもかかわらず、この十数年の間、「ゆとり教育」批判は止むことがなかった。若者たちは「ゆとり世代」とか「ゆとりちゃん」とかレッテルを貼られ、バカ呼ばわりされる。たとえば、ちゃんと3.14と習っているのに「円周率を3だと思ってんだろ」と嘲笑を浴びる羽目に陥った。これは明らかにマスコミの誤報なのだが、すっかり世間に蔓延してしまっている。文部科学省に対する批判はあっていいとして、若者全般を貶めることに何の意味があるのだろうか。