「樺太」の回復と風化の抑制


 「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制は可能であろうか。不可能ではないと私は考える。ただし、それには若年層に樺太への関心を持ってもらう必要がある。とはいえ、それは容易ならざることである。

 樺太について一定の知識をもつ人々が、若年層に伝える必要があるが、その際、伝えられる側の立場(理解力などさまざまな要素)を推し量ってやらないと、現実問題としてほとんど何も伝わらない可能性がある。

 〝伝える側〟〝伝えられる側〟相互の努力・作用によって樺太という地名の回復とその死語化の抑制を図れるはずだ。表について多少補足すれば、「伝えられる側」は経験もなく、教育も受けていない若年層ということ。「樺太を直接知らない大人たち」は、「樺太について一定の知識を有する人々」と「若年層」のどちらにも属すと見なした。つまり、自身より樺太を知っている元樺太在住者などと接する時は「伝えられる側」となり、自身より知らない「小中学生以下」などと接する時は「伝える側」となり得るからだ。

 長々と定義や補足を書いたが、一言で言い換えるならば、「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制には「国民的な関心」が必要であるということになる。

樺太の「事実」を列記してみる


 私を含む「大人たち」をみても、樺太についての知識は、それぞれの経歴や立場によって千差万別なはずである。そこで、樺太について幾つかの事柄を列記してみる。なるべくわかりやすく書いてみるので、これらの中から樺太について何らかの話題性を見出し、若年層との話の種にしていただければと思う。

■横線(北緯五十度線)の意味
「北海道の北に位置する細長い島」の日本語名は「樺太」である。何種類もの地図や地図帳で、この島を詳しく見てみると、それらの中には、「樺太」の真ん中に「同島を南北で二分する様な横線」を入れているものが見受けられる。日本語で発行された世界地図には、この線が入ったものが比較的多い。

ロシアとの「友好」「協力」ばかりで全樺太がまるで正当なロシア領のように表記する地図(北海道庁)
ロシアとの「友好」「協力」ばかりで全樺太がまるで
正当なロシア領のように表記する地図(北海道庁)
 この「樺太を南北に二分するような横線」を一般的には「(樺太上の)北緯五十度線」または「(樺太)国境」と呼ぶ。ご老人や幾分歴史を学んだ学生・生徒には、「北緯五十度線」と聞いた瞬間に、この「樺太上の北緯五十度線」を思い浮かべる人も少なからずいるはずである。

■横線(北緯五十度線)の経緯
 明治初期、当時のロシア帝国はヨーロッパ列強の一角を占め、強力な領土拡張政策を推し進めており、我が国の統治下にあった樺太も自国に併合しようと目論んでいた。

 我が国は、樺太防衛のために手を尽くしはしたものの、強大な軍事力の前に力及ばず、結果として、同国に「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力で樺太を併合されてしまった。

 当時のロシア帝国は、明治後期になると、今度は日本全体をも植民地として吸収することを企て始め、(国力で劣る)我が国は、これを同国との対話によって防ごうと試みた。しかしながら、当時のロシア帝国の野心は収まることを知らず、明治三十七(一九〇四)年、緊張は極限に達し、日露戦争が勃発した。

 ロシア帝国は、我が国を打ち負かせると確信していたようではあるが、現実には陸海とも我が国に叩き潰され、翌明治三十八年には、我が国との間に講和条約を結ばざるを得なくなったのである。
日露戦争緒戦で大勝した帝国海軍連合艦隊(『日露海戦回顧写真帖』昭和10)
日露戦争緒戦で大勝した帝国海軍連合艦隊(『日露海戦回顧写真帖』昭和10)
 この時の和平条件の一つが「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」ことであった。この結果、樺太には、「日本に割譲する南半分」と「ロシア帝国が統治し続ける北半分」を明確に区別するため、北緯五十度線に沿って国境線を引くことが決せられた。

 樺太の北緯五十度線地帯は当時、密林状態にあったので、日露両国は森林を十㍍幅で伐採して空間を造り、その空間を国境線としたのである。これが、地図上で「樺太を南北に二分するような横線(北緯五十度線)」が入った経緯である。

■「割譲」ではなく「返還」
 さて、前段で「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」という一文がある。「割譲」という言葉に違和感を覚える方もいるはずである。何故ならば、日露講和に於けるこの「割譲」とは、実質的(歴史的)には「返還」「回復」に相当するからである。これは、我々日本人が明確に認識しておかねばならないことではなかろうか。

 日露講和の際、我が国はロシア帝国に対し、事実として何を申し伝え、同国からどのような返答を得たのだろうか。わかりやすく端的に表現するならば、次のようになる。

 我が国がロシア帝国との和睦に際し、同国に申し伝えた事実上の内容は「貴国が明治初期に我が国から実質的に武力で奪取した樺太を還していただけないだろうか」ということである。

 この申し入れに、ロシア帝国は紆余曲折の結果「樺太の南半部だけを譲る(還す)」と応じてきたのである。

 補足となるが、日露の役は、我々の先人方が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。先にも書いたように、ロシア帝国は明治後期に我が国を植民地にしようと企て、樺太を奪ったばかりか、満洲、朝鮮と南下を続け、我が国に迫っていた。ところが、自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、かつて我が国から武力で奪い取った樺太のうち、南半分だけは還さざるを得なくなっただけの話である。