「樺太回復期」と「樺太関連呼称」


 元樺太在住者などの樺太関係者の間では「北緯五十度線以南の樺太」が日本領として復帰していた明治三十八(一九〇五)年から昭和二十年(一九四五)年の四十年間を「樺太回復期」と呼ぶことがある。
日露戦末期の明治38年7月9日朝、日本軍が樺太・九春古丹(大泊)に上陸した時、ロシアは街を焼き払って退却していた(『日露戦役海軍写真帖』明治39)
日露戦末期の明治38年7月9日朝、日本軍が樺太・九春古丹(大泊)に上陸した時、ロシアは街を焼き払って退却していた(『日露戦役海軍写真帖』明治39)
 前述のとおり、実質的(歴史的)に考えた場合、樺太は日露講和により、その南半分のみが我が国に「割譲」ではなく「返還」された。これによって、樺太は北緯五十度線を以って、「日 本領」と「ロシア帝国領」に分けられたわけである。

 その後、北緯五十度線以南を「南樺太」、以北を「北樺樺太」と呼ぶようになった。元樺太在住者の中には、「南樺太」とは五十度線以南の樺太の俗称であり、五十度線以南のみを指す場合でも、単に「樺太」と呼称するのが正しいとする指摘も根強い。

 この樺太回復期に、北緯五十度線以北を以南と区別して呼ぶ必要があった場合、これを「薩哈嗹(サガレン)」とも呼称した。「樺太」については、呼び方一つを取っても、難しい側面があると思うので、簡潔に整理してみたい=表②
 樺太=「北海道の北に位置する細長い島」を意味する場合もあれば、状況などにより「北緯五十度線以南の樺太」のみを意味する場合もある。

 南樺太=「北緯五十度線以南の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。

 北樺太=「北緯五十度線以北の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。

 薩哈嗹(サガレン)=樺太回復期  に北樺太を南樺太と特に区別して呼ぶ必要があった場合に用いた。一部文献では樺太全体を指すのに用いているが、樺太回復期に限れば「北樺太」と同義と考えていい。

 多くの学者、特に史学者が樺太について述べる際、この様な呼称の違いを理解して自然に使い分けていると思うが、樺太を知らない人々、特に若年層にとっては、同島の呼び方一つを取ってみても、難解な面がある。学者方は、若年層に樺太を語る際、こうした点もぜひ踏まえていただきたい。

■樺太呼称と露国号の変遷
 樺太と北海道以南の日本との関わりは、出土品等から、七世紀前後に始まったものと推測されている。この長い歴史の中で、樺太の呼称は、江戸時代以降に限っても、幾度か変遷を遂げてきた。また、樺太から我が同胞を二度に渡り締め出し同島を併呑したロシアも、江戸時代以降に限ってもたびたび国号を変えてきた。

 これらの史実も、世間一般には樺太史を難解にしている一因かも知れない。そこで樺太呼称とロシア国号の変遷もざっと整理してみたい。

 尚、ロシアに先んじて樺太に進出したのは、我が国(松前藩)である。これは重要な史実なので後述もする。また、ロシアが十九世紀に入り突如として樺太の領有権を主張し始め、事実上武力併合したことも、我々日本人が留意すべき史実と思われる。

 まず樺太の呼称変遷=表③=で、一口に「蝦夷地」と言っても、その範囲は時代と共に変化してきた。大和の朝廷の統治外にあった東国(東日本)が、蝦夷地と呼ばれていた。私が知る限り、厳格な時系列で蝦夷地の範囲を明確に示している文献は存在しない。よって、ここでは「蝦夷地」とは基本的に江戸時代の「北海道本島」と考えるが、場合により樺太と千島も含まれた。
 江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね南半分と千島」を「東蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の太平洋側と千島を東蝦夷地と呼称した」としている。

 また江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね北半分」と「樺太」を「西蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の日本海側と樺太を西蝦夷地と呼称した」としている。

 江戸時代に樺太だけを指す際、蝦夷地の一部として「唐太(カラフト)」などと呼ばれていたが、幕府は文化六(一八〇九)年に正式名称を「北蝦夷地」に決した。

元禄13(1700)年に松前志摩守矩広が江戸幕府に納めた藩領図(写本)。北海道の上方に小さく記載しているのが樺太。測量技術が未発達なため形状はあいまい
元禄13(1700)年に松前志摩守矩広が江戸幕府に
納めた藩領図(写本)。北海道の上方に小さく記載
しているのが樺太。測量技術が未発達なため形状
はあいまい
 明治二(一八六九)年、探検家の松浦武四郎の考案で、明治政府は「蝦夷地」と「北蝦夷地」を、それぞれ「北海道」と「樺太」に改称した。

 ロシアの国号の変遷をみる。江戸時代から大正中期までの国号は、細かくみればいろいろあるが、ここでは基本的に「ロシア帝国」に統一する。ソ連の前身国家である同帝国は、大正中期に共産革命により滅亡した。

 大正中期から平成初期までの国号は、同じくここでは基本的に「ソ連」に統一する。正式には、「ソビエト社会主義共和国連邦」と邦訳される。ロシア帝国の継承国家であるが、平成初期に民主化によって崩壊した。これ以降の国号を、ここでは基本的に「ロシア連邦」とする。

 ロシア帝国(及びその前身国家)は元来、欧州にあるウラル山脈西部で発祥した国家である。十七世紀以降、次々と北アジアを征服し、十七世紀後半には「東進」とも呼ばれる領土拡張の中で、清朝の勢力圏にも入り込むが撃退された。この後、清の勢力圏を避けるようにして、カムチャツカ半島や千島列島北部を併合。十八世紀終盤から十九世紀初頭には遂に、我が国の統治下にあった北海道や樺太に到達し、これらを併呑する兆しを見せ始めた。