樺太の概略史


■我が国の「樺太経営」
 前述のとおり、「樺太」と「北海道以南(の日本)」との関わりは、出土品などから、七世紀前後に始まったものと推測される。我が国(松前藩)は、樺太にその南部方面から最初に接触した国家であるが、松前藩及び松前氏の先祖がいつ頃から「樺太」の経営(進出)を始めたのかは不明な点も多い。これは、同藩がアイヌ貿易などで得られる利益を独占するため、樺太を含む蝦夷地に関する多くの事柄を外部(時の政権など)に隠していた事が一因と考えられる。

しかしながら、遅くとも十六世紀終盤には、松前氏の先祖である蠣崎(かきざき)氏が、豊臣秀吉より、樺太を含む蝦
夷地の支配権を付与されている。松前藩は十七世紀前半には、樺太と他の蝦夷地を内包した国絵領図(十五㌻参照)を作成し、これを江戸幕府に提出している。よって、我が国が、最も早く本格的に樺太に進出した国家である事に変わりはない=表④
■シナ王朝と先住民族の関係
 周・秦から漢代までの編纂とされる地理書『山海経(せんかいきよう)』には「北倭起于黒龍江口=北倭(倭北部)ハ黒龍江口(河口)ニ起コル」、また一四七一年に朝鮮の領議政(首相)がまとめた『海東諸国記』にも「日本疆域起黒龍江北=日本ノ疆域(領域)ハ黒龍江ノ北ニ起コル」とあり、いずれも黒龍江(河口)より北、つまり樺太北端からが「日本(倭)である」としている。

 シナ歴代王朝は、基本的に樺太の直接統治(本格進出)はしなかったが、元王朝だけは例外的に「樺太進撃」を行い、樺太の様子を史上初めて比較的詳しく記録した。十三―十四世に樺太先住民族を朝貢させるために武力で屈服させ、その進撃過程などで樺太について比較的詳しく書き記したのであった。元以降も樺太先住民は、明及び清王朝への朝貢や、大陸沿岸民族との交易などは、途中途切れながらも、十九世紀後半まで続けたが、それは主に樺太北部での北部での出来事であった。

 こうしたシナ歴代王朝と樺太先住民の関係は、中華思想の華夷秩序に基づく「周辺の蛮族はみな皇帝に服する」といった程度のもので、直接的な支配や統治はなかった。

■領有権を主張し始めたロシア
 十九世紀半ば、シナ清王朝は英国との戦争に敗れ、弱体化の一途を辿(たど)る。これに目を付けたのがロシア帝国で、一八五八年に璦琿(アイグン)条約を結ばせた。武力で威嚇した不平等条約で、清国領だった黒龍江左岸を併合した。同時に樺太対岸地域から朝鮮にまで接する外満洲を清露の共同管理地とさせて実効支配を強めた=表⑤
 清朝は「全権使節が勝手に結んだ」として璦琿条約を認めなかったが、ロシア帝国は一八六〇年、同じく不平等条約の北京条約で外満洲を沿海州として併合したのである。樺太対岸地域がロシア領となり、シナと樺太先住民族の関係も途絶えた。

 そしてロシア帝国は我が国に対しても、樺太は(清から奪った)樺太対岸地域の属領であるので「我がロシア帝国のものである」と滅茶苦茶
なことを言い出したのである。

■間宮林蔵の大陸渡航
 松前藩は、前述のとおり対アイヌ貿易などの権益は、極力独占しておきたかったので、早い段階からロシア帝国の蝦夷地への南下には気付いていても、江戸幕府への報告を怠っていた。このため、幕府は松前藩の樺太を含む蝦夷地統治能力に疑問をもつようになる。幕府直轄で樺太調査に着手し、文化四(一八〇七)年には、同藩より蝦夷地の統治権を取り上げてしまった。

正装して松前藩を訪れる領内のアイヌ酋長一家。従者に土産の干し鮭など担がせている(伝松前藩絵師小玉貞良)
正装して松前藩を訪れる領内のアイヌ酋長一家。
従者に土産の干し鮭など担がせている(伝松前藩
絵師小玉貞良)
 松前藩が十七世紀前半に幕府に提出した地図に、樺太は島として描かれたが、世界的には大陸と地続きの半島という説が広まっていた。幕府は真相を明らかにするため、文化五年に松田伝十郎と間宮林蔵を樺太に派遣した。二人はいったん北海道の宗谷に戻り、間宮が単身で樺太に再渡航。越年して最終的に樺太北部と対岸の大陸の間を船で往復した。

高橋是清
高橋是清
 この踏査・渡航により、文化六年に樺太が島である事を明確に突き止めた。この功績により、間宮林蔵は歴史に名が刻まれ、海峡名にもなったのである。