■日露和親条約
 ロシア帝国は、樺太や千島への武力攻撃を繰り返すなどしたうえで嘉永六(一八五三)年と翌年、日露国境画定などを目的として、我が国にエフィム・プチャーチン提督を派遣した。江戸幕府は、川路(かわじ)聖謨(としあきら)らを交渉役に任じ、長崎と下田で談判を行ったのである。

 幕府は、樺太全島及び千島全島が領地であると認識していたが、実際は樺太全島及び南千島までの主張に留めた。樺太について川路は、条約本文の付録に「日本人並蝦夷アイヌ居住したる地は日本所領たるべし」と盛り込むことを主張。「蝦夷島」ではなく「蝦夷」としたことで、蝦夷地(北海道)ではなく「アイヌが住む樺太全島」の意を含み入れたのである。プチャーチンは一旦同意したが、まもなく日本側の意図に気付いて修正・削除を強硬に求めた。

 その結果、安政元(一八五五)年に日露和親条約が調印され、樺太・千島の国境画定について次の取り決めがなされた。その内容は、樺太に関して「これまでの仕来りどおり」(これまでどおり樺太は少なくとも北部のラッカ岬辺りまでは日本領であり、そこに境を設けることはしない)とし、千島は「択捉島以南が日本領であり、得撫島以北がロシア領である」とされた。江戸幕府の基本的な主張は、近年樺太にやってきたロシア帝国には、樺太の領有権は全くないというものであった。

 ところがロシア帝国は、前述のとおり、清からの黒龍江左岸・外満洲奪取に合わせ、早くも日露和親条約を反故にする兆しを見せる。安政六(一八五九)年には、軍艦数隻を率いたニコライ・ムラヴィヨフ総督を派遣して、樺太は「樺太対岸地域」の属領だから「我が帝国のもの」だと主張したが、幕府はこれを一蹴し、ムラヴィヨフ総督は退散した。

■樺太島仮規則と樺太千島交換条約
 我が国はムラヴィヨフ総督を駆逐したものの、ロシア帝国の樺太奪取の目論みは続く。慶応三(一八六七)年には、軍事力を背景として樺太島仮規則という仮条約を押し付けてきたのである。内容は「樺太は日露両国の共同管理地(雑居)である」というものであった。ロシア帝国は、仮規則を根拠として樺太を自国の流刑地と見なし、次々と囚人らを送り込んできた。

 我が国が明治維新などによる動乱の前後も、樺太領有を巡る交渉を粘り強く続けたため、ロシア帝国は一時「樺太放棄」を考えたが、我が国の高官の中にも樺太放棄論者が存在することに気付くと態度を硬化させ、「樺太奪取に勝算あり」と踏むようになってしまった。我が国は、金銭を支払うので樺太から撤退してほしい旨をロシア帝国に伝えるなど、最後まで抵抗したが不調に終わった。

 万策尽きた我が国は、明治八(一八七五)年、樺太千島交換条約を押し付けられ、樺太は「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力でロシア帝国に奪われ、併合されてしまったのである。

■日露戦争と日露講和条約
 これも前述したが、日露の役とは、我が先人が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。ロシア帝国は樺太奪取後に続き、我が国を植民地にしようと企てたことで自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、実質的に武力で奪い取った樺太の南半分だけは我が国に還さざるを得なくなっただけの話である。日露講和条約は、明治三十八(一九〇五)年に締結され、北緯五十度以南が我が国の領土に復帰した。

■樺太回復期
 我が国の領土に復帰した時期、樺太は「地獄の島(ロシア帝国の流刑地)」から「宝の島(我が国の開拓地)」に生まれ変わった。紙幅の関係でその詳細には触れないが、日本統治下 の樺太は、漁業や製紙業などにより目覚ましい発展を見せた。最盛期には人口が四十万人を大きく超え、島都豊原(とよはら)は市制を遂げた。第二の都市恵須取(えすとる)も市制施行寸前であったが、終戦直前にソ連が中立条約を無視して樺太に侵攻、不法占領したため、市制施行は幻に終わった。

■国際法無視の不法占拠
 大東亜戦争敗北により、樺太は無理やり我が国から切り離されたが、同島は歴史的に日本領である。然るべき国際機関で帰属が決められないまま、ロシアが不法占拠している事実を、我々日本人は忘れてはならない。国際法に則り正当に帰属が検討されれば、樺太が我が国に返還される可能性がないわけではない。

 ならば我々は、樺太を平和的に取り戻す努力をする必要があるのではないか。現実的な手段として買収なども考えられるが、先ずは国民の合意が必要であり、そのために我々自身が樺太を思い出す必要がある。

 ソ連を引き継いだロシア連邦は、北方領土問題について樺太・千島どころか四島ですら「領土問題は存在しない」と、ソ連時代以上に強硬になっている。その背景にはどんな狙いがあるのか、我々は警戒を怠ってはならない。


たかはし・これきよ 昭和四十六年東京都生まれ。米国の高校、大学及び大学院に通い、主に数学研究科に在籍。帰国後の平成十三年から東京のコンサルティング会社で電子機器市場の分析を担当。幼少時から樺太に関心が強く、十八年に社団法人全国樺太連盟入会、二十五年から同連盟の樺太史広報を担当。著書に『絵で見る樺太史―昭和まで実在した島民40万の奥北海道』(太陽出版)及び『大正時代の庁府県―樺太から沖縄に置かれた都道府県の前身』(同)など。「樺太は、その歴史を知れば日本であることが分かる。百年、二百年かけても平和的に回復すべきであり、それにはまず日本国民への樺太史の広報啓発が不可欠」が持論。東京で沖縄の八重山日報を定期購読し、国境の島々の情勢にも日々目を配る。プロ野球東京ヤクルト・スワローズの熱狂的ファン。趣味は貼り絵作成と神社仏閣巡り。「お授けいただいた御朱印を見ると幸せな気分になる」