私が関心を持つのは加藤清正による熊本築城が天正十九年(一五九一)頃より開始されるのであるが、その直後に勃発した豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)により、清正は参戦渡海することとなり、築城は一時中断されたことである。そして役後の慶長四年(一五九九)頃より再開され、慶長十二年(一六〇七)に完成する。

 ちょうど築城中に清正は朝鮮半島で戦っていたのであるが、その最大の戦いが慶長二年(一五九七)の蔚山籠城戦である。約六万の明・朝鮮連合軍に囲まれた蔚山城は冬の寒さと飢えで惨状を極めた。こうした籠城戦を戦い抜いた後に熊本築城は再開されたのである。そこには蔚山での教訓を活かした普請がおこなわれたものと考えられる。そのひとつが井戸の多さだったのであろう。

 さて、今年四月十六・十七日に熊本を襲った震度七の地震は天下の堅城熊本城をも襲った。私は熊本大地震で映し出された熊本城の惨状に驚き、涙した。そしてマスコミからは、あの熊本城の石垣すら崩れたことに対するコメントを求められた。石垣は決して崩れないわけではない。江戸時代を通じて日本の城で石垣修理をしなかった城などほとんどない。しかもその修理は大半が地震で崩れたことによるのである。まして今回は震度七という激震である。

 これからの修復には相当の費用と時間がかかる。石垣修復は旧状に戻すのが原則である。これは石垣も歴史遺産であることで当然なのであるが、問題は耐震補強をどうするかということである。建物に関しては耐震補強がなされてきたが、石垣修理にはこれまで耐震補強は考えられてこなかった。今回の熊本大地震を教訓とするためにも修復に際して議論されるべき課題だと考えている。

 今回の地震でお城が市民の誇りであることを改めて認識させられた。城は単なる歴史遺産ではなく、住民にとっての誇りとなっているのである。熊本市民、さらには県民の誇りである熊本城の復興こそが地震からの復興につながるものとなるだろう。