実際には、英国でのコンセンサスの形成は、それこそ日本で言う「あうんの呼吸」で行われる。私がケンブリッジ大学に留学していた時に、トリニティ・カレッジで見聞きしたフェローたちの振る舞いを見ても、そうだった。留学後も、私はほぼ毎年英国を訪れているが、実際には、英国人どうしのコミュニケーションは、時に、日本人以上に「あうんの呼吸」で進む。

 「そのことについては・・・」と話し始めて、その途中で言いよどむことだってしょっちゅうある。あとは、言外に示唆されたニュアンスを拾って、お互いの理解が進み、また、物事が解決していくのである。

 物事をはっきりさせて白黒をつけるよりも、このような曖昧なアプローチをとることには、それなりのメリットがある。

 まずは、複雑な現実を、そのまま認識できることである。政治に関わる様々な状況は、単純に割り切ったり、決めつけたりできないことも多い。刻々と変化する状況に合わせて、適切な判断をするためには、一見「曖昧」に見える、慣習の積み重ねの方が適している場合が多い。

 次に、人間のすぐれた「直観」の能力を用いることができることである。直観は、大脳新皮質の中の論理だけでなく、身体性と深く結びついている。いわゆる「内臓感覚」(ガッツ・フィーリング)である。英国では、伝統的にサッカーやラグビーなどのスポーツが教育の重要なポイントとされているが、そのようなカリキュラムも、直観を育むためという側面があるのだ。

 さて、EU離脱の国民投票である。これまでの英国の伝統から言えば、EUに留まるかどうか、留まるとしてどのような交渉をするかということは、繊細でバランスを考えた状況認識、交渉、そして決断で行われたのではないか。

首相官邸前で辞意を表明するキャメロン首相=6月24日、ロンドン
首相官邸前で辞意を表明するキャメロン首相=6月24日、ロンドン
 保守党内の突き上げによるものとは言え、キャメロン前首相がEU離脱についての国民投票を実施する、と表明したこと自体が、これまでの英国の政治的伝統から見れば、異質なことだと言える。

 さらに、キャメロン首相を受け継いだメイ首相は、国民投票の結果を、文字通り実施すると表明している。これも、従来の英国の伝統から見ると、違和感がある。本来、情勢は微妙に変化するはずであり、ある時点での状況判断が、後にも有効であるとは限らないからである。

 国民投票で、一票でも多い方が「国民の意志」であり、それは誠実に実行しなければならない、というのは、一つの「イデオロギー」であろう。多数決は、民主主義の大切なイデオロギーかもしれないが、唯一の考え方ではない。それにもかかわらず、それがわかりやすい「数」の力であるために、国民投票が一度実施されてしまうと、誰にも動きが止められない「怪物」になってしまうことも、また事実である。

 英国は、長い伝統の中で、健全な現実主義を培ってきた。共産主義は、ロンドンの大英図書館に通ったマルクスによって構想されたが、英国内では、現実の政治で力を持つことはついになかった。英国の現実主義の中で、共産主義というイデオロギーの「怪物」が跋扈する余地がなかったからである。

 では、「国民投票」はどうか。ある時点での、単純な「二択」(「残留」か「離脱」か)を選択させて、その結果に従うことは、本当にその国のためになるのか。EUからの離脱が、スコットランドや北アイルランドの独立の可能性など、さまざまな事態を招き、まさに「パンドラの箱」が開いた様相を呈している英国の状況を見ると、「多数決」という民主主義のイデオロギーの実態が、それが一見正しいものに見えるだけに、大いに疑問に思えてくるのである。

 日本もまた、英国と同じように、長い歴史を持つ国である。時代に合わせてさまざまなことを決めていくことは大切だが、必ずしも住民投票、あるいは国民投票というかたちによらなくても良いのではないか。

 脳の働きを説明する概念の一つとして、「マインドフルネス」がある。周囲の状況を、いきいきと、そのまま受け取ること。英国の政治の最良の伝統は、リーダーたちのマインドフルネスの中にあったように思う。国民投票の盲信は、刻々と変わる状況に対する「マインドフルネス」を封印することにつながりかねない。