マックス・ウェーバーが言う「家産制国家」の中華の王朝とは違って、日本の天皇家は中国の「家天下」と異なる。つまり天下の財産はすべて天子・皇帝のものとする中華王朝とは対照的に、皇室は古来質素だった。ことに武家時代にはなおさらである。応仁(おうにん)の乱の時代には、天皇家は貧乏きわまりないものだった。第103代後土御門(ごつちみかど)天皇は1500(明応9)年10月21日に崩御したが、葬儀にあたってその費用さえなかった。幕府から1万疋(ひき)の献上金が用意されるまで、遺骸は43日間も清涼殿北側の黒戸御所に安置されていた。天皇の菩提寺(ぼだいじ)である泉涌寺(せんにゅうじ)で大葬に付されたのは11月7日のことだった。

 その子の第104代の後柏原(ごかしわばら)天皇が践祚(せんそ)し即位式を行うときにも応仁の乱のため費用がなかった。朝廷は即位式のための50万疋(5千貫文)の費用さえ調達することができず、即位の式典が実現したのは、践祚から21年後のことだった。

 戦後日本は一変して、日本共産党をはじめ、国外の諸勢力を背後にひかえた者たちが「天皇制廃止」を掲げ、「日本革命」と「天皇処刑」を唱えた。何かあるたびにメディアを動員して、皇室バッシングを行ってきた。その一連の策動により、1993(平成5)年10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子皇后が赤坂御所の談話室で倒れ、失声症になる。そして週刊誌の皇后バッシングが始まった。
熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影)
熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影)
 宮内庁は同26日に皇室への批判に対する反論を発表した。美智子皇后も「批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会であって欲しくありません」と文書で回答した。

 戦後日本の報道の問題は、まさしくそこにあると筆者も痛感している。無責任で悪意に満ちた言論人の驕(おご)りには、つねに憤りを感じさせられる。

 どのような世界でも、戦乱にもなるとそれまでの王権が消え、地方の有力諸侯などが覇(は)を競い、王を名乗ることがほとんどである。たとえば春秋五覇(しゅんじゅうごは)や戦国七雄(せんごくしちゆう)はそれぞれ公や王と自称し、五胡十六国の時代は多くの王や帝が乱立した。そうした例はいくらでもある。

 日本では応仁の乱以後、天皇の存在が薄くなった時代もあったが、織田信長や豊臣秀吉が天皇に取って代わることはできなかった。徳川の武家政治が300年近く続き、皇室を無力化したが、最後にはやはり、大政奉還せざるを得なかった。

 応仁の乱から明治維新に至るまで、天皇は権力も武力も、財力さえジリ貧の時代だった。即位式も、葬式でさえ幕府や有力な大名から費用を出してもらってやっと執り行うことができ、泥棒が宮内に入ってくることさえあったのである。