繰り返しになるが、天皇は国を代表して国家、国土の祭祀を行う祭司王だということである。大嘗祭や践祚などは、その皇権の権威と正統性を伝えるものだからだ。戦後は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と日本国憲法にも明記されている。「万邦無比」の論拠の1つとなっているのが「万世一系」である。「万世一系」論は、20世紀初頭の辛亥(しんがい)革命(1911年)後に清(しん)王朝が崩壊した後、支那(しな)学者や東洋学者から国学者にいたるまで、日本人はしきりに易姓革命の国と「万世一系」の国を比較した。
清国旗
清国旗
 清朝末期に制定された欽定憲法大綱は、明治の帝国憲法をモデルに「万世一系」の文言まで条文に入れたが、戊戌(ぼじゅつ)維新も立憲運動も、清の皇統と皇帝の権力を護持することに成功しなかった。満洲人の主張によれば、満洲史は支那史とは並行して5000年を有しているという伝説があるものの、太祖(たいそ)のアイシンカクラ・ヌルハチが後金国を建国してから約300年の歴史しかなく、日本とは異なり神代からの「万世一系」とは言えなかった。

 実際には天皇国家日本に類似する国体が20世紀の初頭、アフリカの高地エチオピアに存在していた。しかしこの国体は1974年に消え、今現在「日本の万世一系」の国体はたしかに「万邦無比」のものである。

 第2章でも記述したが、「万世一系」に対する批判は戦後起こったものではなく、戦前にもあった。早大教授、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』などの文献学的批判は有名である。

 また、こちらも繰り返しになるが、戦後、江上波夫東大名誉教授が1948(昭和23)年に「騎馬民族征服王朝説」を説くと、大きな話題を呼び、論争になった。水野祐(みずのゆう)早大名誉教授が1952(昭和27)年、『日本古代王朝史論序説』を著して「万世一系」思想を否定し、いわゆる「三王朝交替説」を説く。古代日本では、互いに血統の異なる3つの王朝が交替していたとする説である。

 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代以前の黄河中、下流域の中原(ちゆうげん)地方も血縁が異なるどころか、夏(か)人、殷(いん)(商)(しょう)人、周(しゅう)人など3つの異民族が約2000年にもわたって混合されて形成された文化集団が、いわゆる華夏の民、漢人の祖先とされている。水野教授の「三王朝交替説」は、日本上古史のことで、実証するには限界があるだろう。こうした「万世一系」否定説は、考古学、民俗学、神話学、国文学など、さまざまな分野や論者から出ている。

 「万世一系」説以外に「天皇不親政」論も大きな議論のテーマとして残っている。津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」(雑誌「世界」1946年4月号 『津田左右吉歴史論集』岩波文庫)と題する一文の中で、「天皇親政論」について、「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承(あいう)けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである」と説いている。

 実際、超古代史は「謎解き」の説に止まっていることはよく知られている。大和朝廷以後の日本史には、政権を握った蘇我(そが)、平、源(みなもと)、足利(あしかが)、豊臣、徳川などが登場する。文官もあれば武官もあり、政体は異なるが、天皇不親政が伝説となっている。

 しかし、天皇不親政についても批判は少なくない。古代の天武(てんむ)天皇前後の天皇や中世の後醍醐天皇などは親政した、戦前の明治憲法では、天皇は国家元首として統治権の総攬者(そうらんしゃ)であるとの規定があり、大権を持っていたので、戦後の「象徴天皇」とは異なるなどの主張もあり、天皇論は続いていく。