そもそも明治維新は、外圧を受ける中で国内の団結が求められたとき、佐幕派も討幕派も敵対し得ない、天皇を中心とした国を造らなくてはならないと痛感した上での「尊皇攘夷」だった。そこで内戦の危機を最小限に抑えるために、大政奉還、江戸城無血開城、廃藩置県という国の大事が無血のまま行われ、国民のエネルギーを結集し、さまざまな国難を乗り越えて近代化を断行できたのである。中国のような国共内戦や韓国のような南北戦争を避けられたのは、天皇という国家の祭主の下で、日本人同士が同胞意識を持っているからだろう。これは易姓革命がなくても維新、改革を可能にした日本の社会のしくみでもある。

徳川慶喜
 明治維新後では、大政奉還した徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は公爵(こうしゃく)にまで列せられ、徳川家達(いえさと)は貴族院議長を務め、五稜郭(ごりょうかく)で最後まで官軍に矢を向けた榎本武揚(えのもとたけあき)は海軍卿(きょう)、同じく大鳥圭介(おおとりけいすけ)は駐清国公使になっている。徳川慶喜の孫は高松宮妃(たかまつのみやひ)となり、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の孫も秩父宮妃(ちちぶのみやひ)になった。そして本来朝敵だった徳川家の家臣たちは新政府の行政機構の中枢を担い、引き続き国政を支えていった。これは中華世界では絶対あり得ないことである。

 中華世界では、政敵の一家皆殺し、いわゆる「滅門」だけでなく、海外まで逃げ隠れても、追っ手がどこまでも追いかけてくるしつこさがある。

 たとえば朝鮮の甲申政変の主役であった金玉均は、改革失敗後、東京や札幌など転々と逃亡し続けたが、ついに上海で暗殺され、その亡骸(なきがら)は朝鮮に運ばれて八つ裂きにされた。

 その残酷な有り様を知った福沢諭吉が、中華大陸と朝鮮の近代化に絶望し、「脱亜論」を書いたことは有名な話である。

 台湾では、蒋経国(しょうけいこく)(蒋介石の長男で第6代・7代の中華民国総統)のことを批判的に書いた『蒋経国伝』の著者で台湾系アメリカ人の江南が、サンフランシスコで台湾からの刺客に暗殺されるという「江南事件」があった(1984年)。これにアメリカ政府は激怒し、蒋介石一族の「帝位継承」は2代目で終わってしまったのである。

 佐幕派も討幕派も、「尊皇攘夷」という共通の錦旗(きんき)の前で一変することが可能なのは、まさしく天皇という超越的存在があるからである。内戦のような事態に陥っても、互いが憎悪や不信に駆られて徹底的な殺戮(さつりく)を行うことがなかったのは、天皇という「家長」の下で、日本人同士が同胞意識を強くもっているからである。日本国民は貴賤(きせん)を問わず、この神聖なる天皇という存在の「赤子」であることを喜び、国家と国民が一体感を持っているからなのである。