天皇と日本国民の固い絆


 戦後、「一視同仁(いっしどうじん)」という言葉はタブー用語にまではされなかったが、いわゆる進歩的文化人によって嘲笑(ちょうしょう)の的(まと)として頻繁に引用されている。

 しかしこの言葉のいったいどこが悪いのだろうか。天皇から見れば、「臣民」であろうと「赤子」であろうと、国民でも「非国民」でも、良し悪しを超えて見る立場にあり、私を超えて「無私」という立場を貫いている。それは、「天皇制打倒」を狙(ねら)う者に対しても例外ではない。

 敗戦直後、日本が食糧危機に直面した際、日本の左翼政党に率いられた人々が皇居のまわりを囲い、「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、ナンジ、人民飢えて死ね」というプラカードを掲げ、米をよこせのスローガンを叫んでデモ行動を行った。

 侍従(じじゅう)の一人が「陛下、あれは共産党の煽動によるデモです」と言うと、昭和天皇は「あれも日本国民だろう」と答えたという。

 第16代仁徳(にんとく)天皇が先代の応神天皇から位を継ぐ前に、さまざまなエピソードがあった。応神天皇は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を皇太子に立てた。ところが天皇が崩御すると、皇太子は兄の大鷦鷯(おおさざき)皇子が天皇に即位するよう望んだ。兄の皇子こそ人格が優れ天皇の大位につくべきだと考えたのである。しかし大鷦鷯皇子は弟の申し出を辞退した。そうこうしているうちに、もう一人の兄の大山守(おおやまもり)皇子が皇太子暗殺をはかったが、失敗に終わった。皇子と皇太子の兄弟2人で皇位を譲り合うこと3年に及んだ末、皇太子はついに自殺して兄に皇位を譲り、皇位についたのが仁徳天皇だった。
大阪府堺市の仁徳天皇陵
大阪府堺市の仁徳天皇陵
 仁徳天皇は難波に高津宮(たかつのみや)を営んだが、生活は質素だった。即位して4年目に、天皇が高殿から眺めると、民家からかまどの煙が立ちのぼっていないことに気がついた。「民百姓は貧しいために炊くことができないでいる」と群臣に相談して、向こう3年間、徴税を止めた。

 それから3年後に煙が上がったので、「朕はすでに富んだ」と喜んだが、皇后は「宮殿の垣根が破れ、建物は荒れ、衣裳もぼろぼろ、それなのに、富んだなどとよくおっしゃるものですね」と言った。

 すると天皇は「もともと天が王を立てるのは、民百姓のためなのだ。民百姓のうち1人でも飢えこごえるものがいれば、わが身を責めたのだ。民百姓が豊かならば朕は豊かである。民百姓が富んでいるのに王が貧しいということは聞いたことがない」と答え、さらに3年間、税を免じた。